部材入荷まで、、2週間の空きを生じてしまった、、、ここは、チャンス、3日程度の旅に出る、、
世界遺産になった富士周辺でも、、レンタカーで走るか、、
新幹線で、、静岡、、駅レンタカーで、、西伊豆戸田港、、土肥港からフェリーで清水港へ、、、三保の松原、、、富士周辺の景観、、、周辺の寺(実相寺、妙日寺、西山本門寺、北山本門寺)を巡る予定で出発、、、、
だいたい、寺巡りでは、一緒に行く奴は少ない、、し、、、気が楽な方がいい、、。
一人で行く、、、。
気持ちは、、、駿河湾から「葛飾北斎の富士山・富嶽三十六景」イメージで富士山を観る、、、はず、、。。
10月31日(金)前日に仕事が入り、しかも、酒を飲み過ぎで、、、早くも、いい加減な予定は、一日遅れて出発、、、まあ、、、、、天気は良さそうだが、、、、
東京-静岡間は1時間あまり、、通勤時間程度だ、、、
静岡駅レンタカーで、、、慣れないオートスターターの車を借りるが、、これが、後で危うい目に合うことになる、、。、
高速道路で富士から遠い袋井市という駅に向かった、、袋井市は東海道五三次の宿場であるが、、地味な静かな場所だ、、そして、、なにも無い、、
<この時間は誰もいない駅周辺>
この駅から車で5分、、「あの方」の父「貫名次郎重忠」の貫名家の歴代供養塔があり、、貫名家邸宅跡、、だという、、寺に向かった、、寺は小学校の隣で、、裏は田園風景である、、。
、貫名家の供養塔は石野にあった正覚寺(廃寺)から村人が明治時代に運んだといいます、、。
袋井市の一帯は、、かって遠江国山名郡貫名郷と言われていたらしい、、、。
※明治初年(1宿105村)、、「貫名村」が上貫名村・下貫名村にそれぞれ分割合併。
※1875年(明治8年)(1宿96村)
下方丈村・下貫名村・上方丈村・袋井村・反所村・上貫名村が合併して広岡村となる。
※従って、、明治8年には、貫名(上、下)村は、、その名「貫名」を消す、、、。
案内によると、、、貫名家4代目重忠の時代に源平合戦があり、、貫名家は「平家側に組」した、、そのことで、、後に所領争いの末、、重忠は、、安房の国小湊に流配される、、、。
「あの方」は重忠の4男として千葉県安房小湊で、貞応元年2月16日(1222)、、に誕生した、、、。
妙日寺は、正慶元年(1332)に創建されたので、「あの方」が入滅(1282)して50年後のことになる、、まだ、、記憶に残い時だ、、この地が、、「あの方」の父とその一族が住んでいた地域として、、認識していいだろう。
また、、貫名重忠は、、無念の思いを持って、、安房の国に移転したことになる、、、。
教育委員会の案内には、妙日寺は、、「久遠寺日善上人の創建」とされています、、、
ネットで日善上人を探す、、、と、、
身延山久遠寺には、、「竹之坊」がある、、この宿坊は6老僧の一人、日朗の蹤(しょう;足跡)を偲んで命名された、、。
日朗:(大国阿闍梨とも称する)
下総の国葛飾平賀村の出身、父は平賀二郎有国、、母は「日昭」の妹、、「日昭」は伯父で「あの方」より一歳年上、、同じ時期に活躍しており、「日朗」と混乱されることがある。
※日朗上人は寛元三(一二四五)年四月八日に、下総の国葛飾平賀村(現松戸市)にうまれました。日昭上人の妹の夫で義弟にあたる、平賀二郎有国の子供です。日昭上人の甥にあたり幼名を吉祥丸といいました。伝承では父親の平賀有国が、建長六年(一二五四)の一〇月に、松葉ヶ谷に行き日蓮聖人と対面します。このとき日蓮聖人の人徳に感じ、一〇歳の吉祥丸を入門させます。(『本化別頭仏祖統紀』
日朗上人は、「あの方」が入滅した、、武蔵国池上郷に、、、郷主池上宗仲と共に「開基」した池上本門寺を継承する方。その、、日朗の次子に、、「日善上人」あり、、。
あった、、松戸市にある「本土寺」の創建者であり、池上本門寺の2世(祖師は「あの方」)の日朗上人の二男が「日善」で、、ここ袋井市の「妙日寺」を創建したことになる。なんと、、意外と近い、、、。
※日善上人は身延久遠寺の第3祖となる。
日善の父であり、師でもある日朗の伯父にあたる、、日昭であるが、、、
※日昭上人;
下総国海上郡に生まれる、、父は印東冶郎佐衛門尉裕昭で伊豆伊東氏の一族とされる。
15歳で天台宗寺院に投じた、、「あの方」より一歳年上になる、、比叡山に修業中に「あの方」と同郷により、、学友(?)になったと思われる。
それ以来、、「あの方」の弟子となり、、甥である、日朗と共に獅子奮迅の活躍をする、、。
「あの方」は弁殿と呼んで親しくしている、、日朗は日昭とは伯父、甥の関係、、日昭の勧めで、、「あの方」の弟子となり、伊豆の流罪も、、佐渡の流罪も、、給仕し、、牢獄にも入るという、、強信であった。、、「あの方」が入滅した後も、、鎌倉において、、幕府からの弾圧に、、日昭と共に、、耐えた、、日朗の母は日昭の妹、、日昭上人は103歳まで生きた、。
※拙者関連Blog
じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑧ 材木座(zaimokuza) 浜土流 実相寺
じーさん徘徊 そうだ!鎌倉に行こう-⑧ 材木座(zaimokuza) 浜土流 実相寺
<鎌倉材木座海岸の海の家でビール> 鎌倉の材木座海岸、、、、、 名称は鎌倉時代に鎌倉七座(米座、相物座、博労座、炭座、材木座、絹座、千朶積座)という商工組合があり、これに由来する。(Wikipedia) 1953年に、鶴岡八幡宮の一の鳥居と...
※海上郡 (うなかみごおり)
下総国の海上郡は、香取郡の南東、匝瑳郡の東に位置し、古くは下海上国が置かれたといわれる地域で、『和名抄』は「宇奈加美」と訓じています。郡名は、「海の上(ほとり)」からとする説があります。おおむね現銚子(ちょうし)市、旭(あさひ)市(南部)、海上郡海上(うなかみ)町、飯岡(いいおか)町の地域です。
なお、古く養老川左岸に上海上国がおかれた上総国の海上郡は、中世に海北、佐是、馬野の3郡に分かれ、江戸期にすべて市原郡に併合されました
※妙日寺創建の翌年(1333)、、富士大石寺祖の日興上人が入滅(88歳)する。、、、つまり、、、妙日寺創建時には、、まだ存命されていた、、、のだ、、この頃に「あの方」の弟子達、6老僧は、どのような関係にあったのか、、、噂では、、あまり、いい話は聞かない、、、。
日興は、、身延山久遠寺を地頭「南部六郎実長」(波木井実長)との不仲により追われた、、
波木井実長は、、6老僧のうちの、、日向を尊敬し帰依し、、身延山久遠寺の2世として推挙したという、、性格的に妥協を許さぬ厳格な日興の「折伏」体質に対し、、柔和柔軟な日向、、地頭が望んだのは、、「摂受」、、であった。
※その後、身延山久遠寺は「日善」、日台、日院、日叡、日億、日学と続き、日台から日学までの五代は「波木井家の出身」といわれる。
※日興門流は波木井実長の四箇の謗法を糾弾——–
一、甲斐の国・波木井郷・身延山の麓に聖人の御廟あり而るに日興彼の御廟に通ぜざる子細は彼の御廟の地頭・ 南部六郎入道法名日円は日興最初発心の弟子なり、此の因縁に依つて聖人御在所・九箇年の間帰依し奉る滅後其の年月義絶する条条の事。
釈迦如来を造立供養して本尊と為し奉るべし是一。
次に聖人御在生九箇年の間・停止せらるる神社参詣其の年に之を始む二所・三島に参詣を致せり是二。
次に一門の勧進と号して南部の郷内のフクシの塔を供養奉加・之有り是三。
次に一門仏事の助成と号して九品念仏の道場一宇之を造立し荘厳せり、甲斐国其の処なり是四。
已上四箇条の謗法を教訓するに日向之を許すと云云、 此の義に依つて去る其の年月・彼の波木井入道の子孫と永く以て師弟の義絶し畢んぬ、仍つて御廟に相通ぜざるなり。
—————————
つまり、、、日興上人は、、次の理由で波木井入道と絶縁した。
1.釈迦如来像を造立して本尊とした、、、のは許せん
2.聖人在世時には停止していた神社参拝を始めたのは、、、許せん
3.南部の郷内にフクシの塔を供養したのは、、許せん
4.九品念仏の道場を造立したのは、、、許せん
このような謗法を教訓したのに日向が許してしまった、、、
だから、、波木井入道の子孫と永く以て師弟の関係を断絶する。
聖人の御廟がある身延にも行かない、、、。
—————————
※日興門流は、、、他の五老僧に対しても、、具体的な行動に対して激しく糾弾している、、、
一、本尊の事四箇条
一、五人一同に云く、 本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、 而る間・盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。
日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。
———————
日興上人は弟子を引き連れ、、宿坊に移り居て、、駿河地方の教宣に励んでいたが、、、南条朝臣時光の招請により、、大石が原に、、富士大石寺を開基したのである、、、が、、、
、2年後には、、大石寺より僅か2Kmほどの重須と言う場所に、、日興の血縁関係者であった石川一族と共に、、「北山重須談所」を設け居を遷している、、、伽藍を設け「北山本門寺」を山号「富士山」として開山する、、、。
日興にとっても、、この地域は縁者の濃い場所だ、、、。
なにが、、あったのか、、。明日、、「北山本門寺」にも、、行く予定だ。
■治承・寿永の乱
治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。古代最後の内乱であり中世最初の内乱である。後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱が起こり、最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平氏政権の崩壊により源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
この戦乱でも富士川の戦いは、頼朝が苦戦の後に、、ここで甲斐の武田信義と共に、、平維盛、の率いる平家軍を破り、、復活する。
富士川の戦い(ふじかわのたたかい)は、平安時代後期の治承4年10月20日(1180年11月9日)に駿河国富士川で源頼朝、武田信義と平維盛が戦った合戦である。治承・寿永の乱と呼ばれる一連の戦役の1つである。
あの方]と駿河地域、遠州との縁は、濃い、、、、富士山、富士川周辺には、[あの方]の縁者が多く居たに違いない、、
そして、この一帯は、、、、古代より、、様々な歴史がある、、、スポットだ、、、。
——————–
山門から奥に進むと、、、「あの方」の両親(妙日、妙連)の供養塔があります、、、。
袋井市教育委員会の案内板によれば、、、供養塔は江戸時代に柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)が正保3年(1646)に寄進したとあります。
<供養塔は市指定文化財となっています>
※
柳生 宗矩(やぎゅう むねのり):柳生新陰流祖
江戸時代初期の武将、大名、剣術家。徳川将軍家の兵法指南役。大和柳生藩初代藩主。剣術の面では将軍家御流儀としての柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した。徳川将軍秀忠、家光の兵法師範。江戸幕府最初の大目付。大和柳生一万二千五百石の大名。
元亀二年(1571)大和国柳生庄に、石舟斎宗厳の五男として生れる。幼少にして才があったという、はじめは又衛門、諱は宗矩。のち但馬守宗矩。
柳生但馬守が寄進したことについては、、明日に訪れる予定の興門流「西山本門寺」や、、、
池上本門寺、、または、、下総の本土寺との関連を予感させます、、、、。
西山本門寺は——–wikipedia——-、
1343年(康永2年)、日代の開山。富士五山のひとつに数えられる。
日蓮の高弟6人(六老僧)を定めたように、日興の弟子に本六(日目、日華、日秀、日禅、日仙、日乗)と
新六(日代、日澄、日道、日妙、日毫(郷)、日助)とよばれる弟子がいた。
日代は新六の一人で日興の甥である。重須本門寺(北山本門寺)の第2代であったが、本六の一人である日仙との方便品読不読の問答に際し日仙には勝利したものの、重須地頭石川孫三郎との不仲により重須大衆に住職を追われたため、西山へ移って法華堂を建立した。
20代日圓が水戸家の出身という縁もあって水戸光圀の寄進を受けて現在の山容を整えた。
近衛家との関係が深く、信長の首塚は、本能寺の変当時、信長と囲碁に興じていた本因坊日海が近衛前久の命により原志摩守宗安を使い当寺に運ばせたという。
————————————
つまり、、、
20代住職の日圓は、、水戸家の出身であり、、「水戸光圀の寄進」を受けて、、山容を拡張した。
西山本門寺->水戸将軍家->柳生但馬守、、の関係で、、ここに供養塔を寄進した、、のか、、。
幾分、、痛みかけた寺院内を20分ほど参見して、、再び、、高速道路で沼津に向かう、、、そこから西伊豆戸田港(へたみなと)の旅館に入るため、、、急ぐ、、、が、、、。
※日朗の出生、、海上郡->葛飾平賀村 に訂正しました。11/10
日昭の出生 海上郡を追加しました。11/10
つづくーーーーーーーー
コメント