ユダヤと秦氏との関連を探る場合に、、よく言われる違いのひとつが、、「割礼」の儀式だ、、、、、、。
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※キリスト教のカトリックでは、12月25日をイエス・キリストの誕生日としているので、8日後に割礼を行うユダヤ人の習慣から、1月1日がキリストの割礼の日、としている。同じくキリスト教の正教会では、1月14日を主の割礼祭として祝われる。
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ユダヤ教徒の最初の儀式は「割礼」だ、、、
ユダヤ人のマリヤとユダヤ人のヨセフの子のキリストは、、当然に「割礼」を受けた、、。
ただし
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割礼の風習がない「異邦人」(=ギリシア人など)に対して伝道を行う際に、改宗した異邦人に対して割礼を行うかどうかが大きな問題になった。異邦人への文化適合を重視するアンティオキア教会と、律法(=旧約聖書)の厳格な遵守を重視するエルサレム教会の間で論争となった。紀元48-9年頃、エルサレム会議でも、割礼について議論され、最終的に「しめ殺した動物、血、偶像礼拝、不品行」を忌避すれば、割礼を含む他の律法の遵守は免除されることで合意が成立した。
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ユダヤ教の「割礼」は生後8日目にシナゴーグ(宗教施設の集会所)で行われる。
割礼は、、男性の包茎手術のようなものだが、、、
割礼は医学的な理由ではなく、神の命令だ、、、
そして、それはユダヤ共同体への入会の儀式でもある、、、
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全員「幸いなるかな、(ここに)来る子は」
代父「ほめたたえるべきかな、汝、宇宙の支配者、われらの神・主は。あなたは、あなたの戒めでもって我等を聖化し、われらの父アブラハムの契約にわれらの子らを入れるよう命じました。」
全員「この子は契約に入ったので、この子がトーラーの学びの中、結婚や善き業の中にもはいれるように。」
儀式で、、、その子の名が命名される、、少量のブドウ酒が、その子に与えられ、残りはその子の父親が飲み干す、、そして祝いの食事がつづく、、、。
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秦氏の儀式に、、この儀式は聞かない、、、これが秦氏が10支族の末裔では無いという、、決定的な違いになるのか、、、
上記にあるように、、、
「エレサレム会議において、、異邦人には、割礼を免除されている、、、。」
秦氏は、、異邦人ユダヤ教徒なのか、、ユダヤ人原始キリスト教徒なのか、、、
あるいは、、長い遍歴の中で土着の宗教に習合して、、変質したのか、、、。
弓月の君が大挙して帰化した、応神天皇(西暦210~310年)時代、、同時代の中東の宗教事情を考えると、何かが 、、見えてくるかもしれない、、、。
<第二神殿跡の嘆きの壁>
–聖地 エルサレム—
<ユダヤ、キリスト、イスラム聖地がここに重なる>
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キリスト教がローマ帝国で広まり、ローマ皇帝テオドシウス1世が380年に国教と定める以前に建てられたキリスト教会を「初代教会」又は「原始教会」と呼ぶ。
最初の教会は、エルサレムに成立したとされる。そして、ユダヤ教徒によるエルサレム教会に対する迫害を契機にし、ステファノのグループが福音をサマリア・シリアへと宣教しにいき、それにペテロやパウロが加わって、福音はエーゲ海周縁諸都市から遂には60年頃にはローマにまで達したといわれる。
しかし、教義史Dogmengeschichteの理解によれば、ガリラヤ周辺にもキリスト教共同体が成立していた
エルサレムからユダヤ主義に傾くキリスト者がガラテヤ、ピリピ、コリントの諸教会に「異なる福音」をもたらし来た
イエスの言葉伝承を担った人々がパレスティナから「シリア」に入り、その一部が共同体を形成したことなどがパウロの手紙や福音書から想定できる
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この範囲で、、見れば、、、
ローマ帝国時代に属国となったユダヤ領でキリストが生まれ、、、2世紀末には帝国全土に教線を拡大し、、やがて、、、ローマ帝国は、、313年にミラノ勅令を公布してキリスト教を公認した。
その後もキリスト教の影響力は増大を続け、ユリアヌス帝による異教復興などの揺り戻しはあったものの、後のテオドシウス1世(在位:379年-395年)のときには国教に定められ、異教は禁止されることになった。
、、とすると、、ローマ帝国がキリスト教を国教とする以前、、、ユダヤ教とキリスト教が混然としていた時代、、つまり、、ユダヤ教徒から改宗した、ユダヤ人キリスト教徒が迫害を受けていた、、このころに、、秦氏は、、この国に大挙して移民してきた、、、のか、、、。
※ただ疑問に思っていることがあります。
2万人もの帰化を、、応神天皇時代に、、突然に許可するものなのか、、
妄想をすれば、、それ以前にも、、先行部隊が、、来ていたのではないか、、、
しかも、、、シッカリと文化に貢献するという実績を作っていた、、
いや、、、
すでに、、天皇家との強い関係ができていた、、例えば側室、、天皇家との姻戚、、、それならば納得できる、、、。
■妄想を、、更に大胆にしてみる、、、
それは、、卑弥呼の時代だ、、卑弥呼の弟はヘブライ人という、、説がある、、。
大胆に言おう
ユダヤの民は、、弓月君(ゆみずきのきみ)よりも、、かなり前に、、この国に移住しているのだ、、そして、、天皇家に深く関与してきた、、。
それは、やがて桓武天皇の時代に、、「秦氏の館跡」に、現在の「京都御所」を建て、、「秦氏の領地」に千年の都、、「平安京」を築いたことにも、、繋がるのだ、。
「平安京」とは、、、、「エルサレム」、、、と同じ意味を持つと言われる、、、、、。
とすれば、、、それは、、、紀元前722年、、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされ、、難民となって移動した「イスラエル10支族の末裔」が、、、シリアからシルクロードの商隊に混じり、一部はミャンマー、インドなどに、、そして、中国、、朝鮮、、日本へと移動して各地域の部族となって定着した、、、
大きくは2段階、、もしくは、、先行隊の情報から、、この島に着々と、、各支族が到着する、、
移動しても支族は、、一体化しない、、、多くは変質しながらも、、儀式や口伝、、あるいは文字によって、、旧約聖書は伝わった、、それが、、記紀に残る神代の物語にも影響を与えたと、考える、、、、、
時代背景からすれば、、イスラエル先行隊は、、、「ユダヤ教徒」の時代になる。
そして、応神天皇紀に移住した人達はユダヤ人「原始キリスト教徒」の時代ということになる、、、。
妄想は広がるが、、、いずれ、、、わかる時がくる、、、。
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教育
5歳から宗教的伝統を学ぶ、、トーラー、タムルード、ミドランなど、、
13歳にバール・ミツウア8戒律の息子)の儀式を行う
16歳に堅信礼の儀式で責任を自覚する
結婚
シドウヒーン(約束)、、キドウシーム(婚約)、、ニスウイン(結婚)
婚約した女性は聖化されベールを被って顔を隠す、、結婚式でも花婿は花嫁の顔をベールで覆う儀式は残る、、新郎新婦は、両親に導かれてフッパーに入り、ラビの挨拶を受ける。
ラビは一杯のブドウ酒に婚約の祝福を唱える。2杯めのブドウ酒を分かち合いラビの助言で終わる、、、現代では指輪の交換も行う、、、。
葬式
死者は、無地の白装束に包まれる、、簡素な棺に納められる、、詩編の朗読、追悼の言葉、追悼の祈り、、、墓場まで運ぶ間に7回足を止める、、、墓穴に下ろされ土を埋める、、
ツイドークハディンの朗唱、、追悼の祈り、、神の手に委ねる祈り、、、
喪服の期間
アニヌート:死から埋葬まで、、黒の布を引き裂いて悲しみを表す、食肉、飲酒、パーテイ、性交は禁止、、
シブアー:葬儀から戻った遺族、友人に用意した「慰めの食事」をとり、、蠟燭に火を付け7日間灯す、、この間は、自宅で過ごし、社会活動は行わない、、
シャロシーム:その後30日間は、仕事に戻れるが、社会的交わりは避ける、、親の死の喪は1年間、、一周忌には、蝋燭を24時間灯す、、礼拝の日、スコット(仮庵祭)などの行事で礼拝する、、、
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ユダヤ教が派閥化し、、やがてキリスト教がユダヤ教の分派のように拡大する、、異邦人が増大するようになり、、保守派と革新派、国際派ができる、、、その後に「イスラム」が生まれる、、聖地が重なる3つの宗教は骨肉の争いを始める、、、。
ここまで、、きたら、、秦氏とは時代的に離れるが、、「イスラム」について調べておかにゃあ、いかんじゃろなー、、、。
つづく、、、。
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