<1867.12.21 ロンドンのニュース>
常磐線松戸駅から徒歩10分の小高い丘の上に重要文化財に指定されている「戸定邸」(tojotei)がある。
徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜の、、異母弟の昭武(あきたけ)の旧屋敷である、、、、。
慶喜は、、なにせ、、父は徳川斉昭(水戸藩主)殿様ですから、、、側室の子供も含みますと、兄弟は24人おります、、、。
順番からすると、、慶喜(天保8年(1837年)9月29日生)は7男で7番目、、、昭武は(嘉永6年9月24日(1853年10月26日))18男、20番目の子供になります、、、。
年も離れていたので慶喜は昭武を、、とても可愛がっていたといいます、、、。
慶応3年10月大政奉還のとき、、昭武はヨーロッパに外遊中でした、、。
本来は慶喜が招待されていた「パリ万博」に代理として参加し、、万博終了後にはスイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリスなど欧州各国を歴訪しています。
大政奉還はパリの新聞で知ったと、、、あります。
慶喜からは、大政奉還後も、、そのまま外遊することを手紙で伝えられましたが、新政府の帰還命令で慶応4年11月3日(12月6日)帰国しました、、。
昭武は、、明治17年に隠居して、、ここ戸定邸に居を移します。
※クリックで拡大します。
この写真は、明治22年に慶喜が戸定邸を訪れた時の記念写真で左端が慶喜です、、、。
このころの慶喜は、、、油彩画や写真に没頭しています、、戸定邸の写真も撮影しており残されています。
平和な団欒の写真ですが、、どんな会話がなされたのでしょうか、、、
慶喜は、大正2年11月22日76歳の生涯でしたが、、昭武は明治43年に没しています。
ところで、、、
NHK「八重の桜」の会津藩主、、、松平容保ですが、、
慶応4年9月に鶴ヶ城が落城、、生き残った家来は、、青森県下北半島に移住、、斗南藩3万石を開くべく辛酸をなめることになる、、、
永禁固となった容保だが、、明治4年には自宅謹慎に軽減、、、明治9年には従五位に、、明治13年からは日光東照宮の宮司となる、、、日光は徳川家所縁の地、、ここでは、慶喜と対面している、、、。
容保は、、明治26年12月5日没(59歳)
明治維新に散って行った、、多くの若者と、、、、長寿の殿様、、どちらも、、激動の歴史の中を生き抜いたのです、、いいも、、悪いも、、、ありません。
ただ、、、みんな生きてほしかった、、、なんて、、感傷は、、、どの時代にも通用しない、。
そう、、、「日本の夜明ぜよ、、、」、、、ですから
明るい陽射しが、、昇り始めた、、、、のですから。
過去のことは、、みーんな、、水に流した、、、明治です。
※幕府の要人の多くは、、勝海舟の尽力で、、明治政府に採用されている。
※H21年;天皇皇后両陛下が、10月16日、戸定歴史館へ行幸啓になり、千葉大学園芸学部創立百周年記念展示会「江戸時代の園芸文化史」を鑑賞されました。
※戸定邸の裏は、、千葉大学園芸学部の敷地で、、実験農場などがあります。学び舎は、やや旧式になっており、小さめの「学食」は誰でも利用できます。
※邸から観える松戸駅裏の小高い丘には、千葉地方裁判所、検察庁松戸支部、聖徳学園大学などがあります、、、、丘の中程に、私が生まれた家がありましたが、現在はどなたかのマンションになっています。
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