富士周遊 2025.05.07 北山本門寺 ・ 正林寺(重須)へ 

2025.5.7富士山周遊
今回の富士周辺ドライブでは主に日興門流寺を巡る2日間の旅
内船寺(ないせんじ)四条金吾の墓 ※内船寺は日興門流ではありません
身延山久遠寺 日蓮草庵跡・御廟所
北山本門寺 日興の墓
北山正林寺 日頂の墓
大石寺 日蓮正宗 総本山



前日、連休最後の雨中のドライブ、さらにレンタカーのナビの悪さに苦労したが、今日は晴れ渡りホテルの真正面に富士の霊峰が美しい。山中湖からスタート、まずは近場の「忍野八海」へ



90%は外国人で90%はアジア系更に90%は中国人です



ここからの富士景観も素晴らしいです。

観光用写真はこんなのがありますね。



広大なイメージでしたが、、意外とコンパクトな観光地でした。

さあ、、次は北山へ、、途中に自衛隊富士演習場などを経由して約2時間のドライブ



北山本門寺 山号は富士山、南条時光に招請されて上野に大石寺を創建、2年ほどで重須に法座を移して53歳の時(1298)に、、重須石川能忠、上野南条時光、小泉法華宗の協力で本堂、御影堂、垂迹堂を擁して「法華本門寺根源」と称した。通称として北山本門寺と呼ばれる。





立派な伽藍である。この日5/7は平日でもあり誰も居なかった。今回は2度目の参観なので日興上人の墓に挨拶して次の正林寺へ、、

北山本門寺からは北へ徒歩15分程度の棚田の中にある。車が1台ようやく通れる狭い棚田道を進む。

 




コンパクトながら凛としています

おや、寺紋はどこかと同じ鶴丸ですね。こちらは身延日蓮宗です。



さて、、

後継を託された弟子たち、、その六老僧のひとり伊予房と言われた「日頂上人」について、、、若き俊才は、、晩年静かな一生とも評されている、、

伊予房 日頂
誕生建長4年(1252) 富士重須城主の橘樹氏である伊予の守定時の長男ともいわれる。定時が戦死、母と弟(後の日澄)、妹(乙御前)と鎌倉に移る。
養子と出家(1260)千葉氏仕官冨木氏に母が再嫁ぎ(富木尼御前)、8歳で下総若宮に同行して養子となる。真間法印了性のもとで出家
佐渡(1271)20歳のとき日蓮流罪の佐渡へ冨木氏の命で給仕する
身延(1274)23歳 日蓮に同行して波木井郷の身延に入る
弘法寺(1275)初代貫主となり下総にて教線拡大
熱原法難(1279)富士熱原にて3人の兄弟が処刑、残る17人は追放、救援活動
身延往復(1280)鵞目一結供養、鵞目とは穴銅銭を一結び千枚冨木殿の供養
本弟子(1282)日蓮入滅 本弟子六老僧に指名
墓所番(1283)「墓所守番帳事」により墓番は4月が担当となる
良実状ご返事(1291)弘法寺を拠点に活躍、幕府に申し状「法華一条の教え」
を提出、批判する良実(よしざね)に対し公場対決を申し入れる
冨木常忍との絶縁(1294)あの方の3回忌法要(1984)に鎌倉の折伏が長引いて遅刻したとされることが原因とされ、義父と絶縁となる。
重須談所(1294)弘法寺を去り、日興のいる重須談所に入る
本尊付属()実弟の日澄に日蓮真筆曼荼羅を付属する
正林寺(1317)3月8日重須にて入滅 六六歳 墓は北山本門寺

、、、なにがあったのだろうか?

六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー② | 東葛の風

■真間釈迦仏供養逐状(真間仏供養抄)

六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー③ | 東葛の風

伊与房は機量物にて候ぞ。今年留め候い畢んぬ。、、、
として、伊与房は資質が優れています。今年は佐渡に留め置くことになった、、と養父の富木殿に伝えている。

六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー④■日頂と日向は、、師の葬列に参加していない? | 東葛の風

日興上人「宗祖御遷化記録」西山本門寺所蔵

六老僧 日頂は 弘法寺(葛飾真間)から母と正林寺(重須)へーー⑤ | 東葛の風

■日頂の泣き公孫樹(いちょう)伝説

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下記のBlogも参照

遠江国山名郡貫名郷「妙日寺」ジーさん徘徊   富士周辺–①   遠江国山名郡貫名郷「妙日寺」 | 東葛の風

岩本実相寺 一切経蔵 ジーさん徘徊 富士周辺--③  岩本実相寺一切経蔵 | 東葛の風

法連寺(松野)じーさん徘徊 正月の富士山周遊 その2  法連寺(松野) | 東葛の風

北山本門寺・西山本門寺 Baba Looeyジーさん徘徊 富士周辺--④ Baba Looey | 東葛の風

 
 

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