認知症とスッタニパータ

「まあな、、、もう、、、生きてるか、、死んでるか、、自分でも判らない状況が、、理想じゃあないの、、」

なんて、、ほざいてみたことがある、、、。

、、、的外れでも無いかも、、、、、。

※この世とあの世を共に捨て去るのは、、、、それは、蛇が脱皮するようなものである、、、、

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『スッタニパータ』(Sutta Nipata)は、セイロン(スリランカ)に伝えられた、いわゆる南伝仏教のパーリ語経典の一部である(経蔵の小部に収録)。
スッタは縦糸を意味し、漢訳では経と表現される。中国における経も縦糸という意味である。ニパータは、集り。あわせて『経集』となる。
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、、、、、だそうです。

※いわゆる南伝仏教は言葉が判り易い、、、難解な北伝仏教と違い、、仏教が本来の「人を良い習慣」に導くという目的を説明している、、、この、、説教を、、日々唱えるのが、、原始仏教だ、、、。


(結句)の「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」
についてだが、、
「1、蛇」の次の、、「2,ダニヤ」でも牛飼いのダニヤの質問の文章の後半(結句)に、、繰り返される言葉

「神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

も、、、おそらく、、原始宗教に多くみられる「呪文;マントラ」であって、、
当時は直訳せずに、、古代言語を、、意味不明に唱えることで気持ちを昂揚させる効果音、、日本の仏教が梵語をありがたい御経と感じたように、、ありがたくなる秘密のかけ声、、のように思える。

※ハリーポッターの呪文(じゅもん)
メテオロジンクス・レカント(Meteolojinx Recanto)
<急に雨を降らせたりする、気候の呪文>
が、、古代アラビア語や、ラテン語になっているのと同じだ、、、
拙者Blog
空と海と   その4(mantra  )
ジェット機の飛行雲のようだ、、、、と思う、、、 先端は、凄まじい轟音と共に一条の白雲を湧き起こして突き進む、、、 しかし、、 次第に線は広がり、、薄くなり、、、最後は、空中に溶けて、透明化し、なにも無かったような青空がある、、、、、 凄まじ...

ビラジ ビラジ
マカ シャキャラ
バジリ サタ サタ
サラテイ サラテイ
タライ タライ  、、、 (真言)

を日本の真言宗の坊さんが、真剣に唱えるが、、直訳したら、、、あまり、ご利益が無さそうなことに、、なる、、
、、そうゆう効果だと、、、私は勝手に思う、、。

※まだ、全部は見てないが、、ながーいお説教の中の、、
「3、犀(さい)の角」あたりから、、だんだん、、おもしろくなります。

48 金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
画像
、、、、実力者が2人一緒になれば、、、ぶつかり合う、、、だから、そのことを理解して、、ひたすら犀(さい)のように一人で前にすすめ、、、、

なんとなく、、維新の会の石原さんと橋本さんが、、思い浮かんだ、、、。

「4、田を耕すバーラドブァージャ」では、
仏陀に対して、あんたが田を耕してるのは見たことがない、、働いてこそ、、食べ物を食することができるのではないか、、あんたも働くべきではないか、、

と質問するバラモンに、、頓智問答のように仏陀が答える、、、。

「私も、、違うジャンルですが、、畑を耕しているんです、、、信仰が種、、苦行が雨、、知慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)きである、、、。」

、、、まあ、、、いいか、、と田を耕すバーラドブァージャは、思う(;私の解釈)、、、。


「3、犀(さい)の角」は、、独哲学者ニーチェが口ずさんでいたらしい、、
so wandle ich einsam wie das Rhinoceros

<犀の角のようにただ独り歩め。>

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【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>
<岩波文庫>

第一 蛇の章 】

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■□■<1、蛇>■□■
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1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

5 無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

8 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり越えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

10 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

11 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

12 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

13 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

14 悪い習性がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

15 この世に還り来る縁となる<煩悩から生ずるもの>をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

16 ひとを生存に縛りつける原因となる<妄執から生ずるもの>をいささかももたない修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
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※「1.蛇」がシルバー向けの、説教のようだが、、「3、犀(さい)の角」は、青壮年むきか、、

、、68 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。、、

など、、宮沢賢治を思い起こすような、、前向きな説教になる、、、。

※素人には、、、内容が複数者の説教を、、追加してきた、、と、、思えるが、、。
、、、

ドイツの哲学者「ニーチェ」が、、犀の角のようにただ独り歩め、、を口ずさんでいた、、とある。
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「3、犀(さい)の角」

35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

39 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

42 四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

43 出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。

44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。

45 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

46 しかしもし汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

47 われわれは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分より勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

48 金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

49 このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。

50 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

51 これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

52 寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、──これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。

53 肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。

54 集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔<ブッダ>のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。

55 相争う哲学的見解を越え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。

56 貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。

57 義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽って怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。

58 学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を去って、犀の角のようにただ独り歩め。

59 世の中の遊戯や娯楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

60 妻子も、父母も、財産も穀物も、親類やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。

61 「これは執著である。ここは楽しみは少し、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。

62 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

63 俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。

64 葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除き去って、出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。

65 諸々の味を貪ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

66 こころの五つの覆いを断ち切って、すべてに付随して起こる悪しき悩み(随煩悩)を除き去り、なにものかにかたよることなく、愛念の過ちを断ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。

67 以前に経験した楽しみと苦しみを擲ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。

68 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。

69 独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。

70 妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。

71 音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。

72 歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。

73 慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

74 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

75 今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

※まだまだ、、、以下、、続くよ、、

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm

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■ニーチェはスッタニパータに大きな関心を持った

「犀のように、ただ独り歩め」”so wandle ich einsam wie das Rhinoceros”と唱えていた。
僕はシュマイツナーの友人ヴィーデマン氏から、仏教徒たちの聖典heiligen Buchernのひとつとかいう『スッタ・ニパータ』の英語の本を借りた。
そして『スッタ』の確乎たる結句のひと  つを、つまり「犀の角ように、ただ独り歩め」という言葉を僕はもうふだんの用語にしているのだ。
生の無価値とすべての目標の虚偽とにたいする確信が、しきりと、ときには僕の心に迫 ってくるのだ、ことに病気でベッドに寝ているときなどにはね。
それで僕は『スッタ』からもっと多くのことを聞きとろうとしているのだ、ユダヤ=キリスト教的な言い回しと結びつけないで ね。

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