この本の訳者永井浩氏が、まえがき、で、、、
東南アジアでよく見かけるハスの花。それが、ビルマ(ミャンマー)の民主化運動指導者でありノーベル平和賞受賞者であるアウンサンスーチーさんに初めて会ったときの私の第一印象だった。1995年9月、彼女が6年間に及ぶ自宅軟禁から解放されてから間もないころである。
花は凛として気品と奥ゆかしさを秘めていた。その美しさの水面下はどうなっているのか。
、、、、、、軍政の厳しい監視の目をかいくぐって、日本の人々に初めて届いたのは同年11月27日の毎日新聞紙上だった。
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スー・チー氏の訪日は1986年以来。というニュースタイトル、、
スーチーさんの訪日期間は4/13~4/19、、、
スーチーさんの最終日程の日、、くしくも、、4/19、、私も、、成田を発って、、バンコクからビルマに向かった、、、、。
バンコクに5日滞在後に、、2泊3日でヤンゴンに行き、、また、バンコクに戻るというだけの、、
それは、じーさんの、思いつきの旅行であり、、ただ、、ビルマをチョコッと覘いてみたい、、ということだけではあるが、、、
タイミングの奇遇さを感じながら、、インド、タイ、中国北部、ラオスと接する、、、アジア最後の開発国と言われる、、、この国、、仏教国であり、、軍国政権であるこの国、、少数民族が幕藩体制のように独立する国、、
多くの政治犯が、、、長きにわたり牢獄生活を強いられている、、この国、、、を、、、垣間見たい、、、。
実は、この本を買ったのは、ヤンゴンからバンコクに戻って、サイアムの伊勢丹、紀伊國屋なので、、、
記憶を、、整理するようにホテル、、飛行機内で読ませてもらった、、、。
なにしろ、、ヤンゴンの貴重な写真は、デジカメの操作ミスで全て削除してしまった、、のだから、、、スーチーさんの言葉が、、もう、すでに幻想的なイメージになって、、より強烈に胸に響くようです、、。
■ビルマの夏
ビルマの夏は、3月と4月で、、、、夏はまた、4月半ばに始るビルマの新年の準備にとりかかり、星占いを信じる人たち、すなわち、大多数のビルマの人々があれこれと、占いを調べて、これからの12カ月に備える時でもある。
つまり、、私は、ビルマの季節で一番暑い夏、、しかも正月に、、訪れたことになる、、、
学校は、夏休みということでした、、
最初の、、シュエダゴン・パヤーに行ったときの感動は、、、暑さを全く忘れさせました、、、
最初の夜の、、今、ガイド本で確認すると、、カンドーチ湖のほとり、、「カラウエイパレス」というレストランでした、、近くには、日本大使館もあり、、湖から見る夕日、、そして夕日をバックにする仏塔シュエダゴン・パヤー
民族舞踊を見ながらの、、ビールの味は格別でした、、、。
■4/25 バゴーへ
ヤンゴンの北70kmにある古都、、、バゴーへは2日目に行くことになった、、
HISの、ツアーは、一人でも、二人でも同じ2万円だというので、、ガイドに単独交渉した、、、
結果、、食事をこちら負担で1万円で、、ガイド個人の車を使って、、行くことになった、、。
13~16世紀、、モン族の王都となり栄えた、この都市は、18世紀ビルマ王朝によって征服されたそうです。
ただ、、気温40度にもなる、、ビルマの寺を歩き廻るのですから、、2日目は、まるで修行僧のような気分になります。
寺以外には王様の宮殿跡、、といっても、すごく新しい、、のです。
、、特に見る場所も、、無さそうですし、、、ひたすら、ガイドの話を聞きながら、、寺を巡りました。
途中で、、庶民の生活を支える「市場」に立ち寄り、、人々の生活ぶりを見たり、、、
そこでは、庶民的と言われる、、ウイスキー1150k(¥115-)を2本買いました。
1本はホテルにおいてきましたが、1本は土産として持ち帰りました。
水瓶を作る、、家内工場を見たりはしましたが、、、、クーラーの効いた車から降りると、、灼熱、、の大地。
暑い、熱い焼き物工場で撮った、、、現地の子供との写真も、、ミスで削除してしまいました。
■戦う女孔雀
恐れずに抱きしめよ
この誇りの道標を
それを不動のしるべとしよう
私達の旅路を
戦いながら進むとき
また新しい一歩が要る
、、、、略、
、、、、、
この誇りの道標を
もうぐらつかせてはなるものか!
私達は立ち向かう
ここにとどまり
ここで花開く
ここで朽ちようとも
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無名の女性から送られた詩です
軍政下で、、、多くのミャンマー人が海外へ避難した、、
英語ができるので、、米国やシンガポールには大勢移住しているとガイドは言います。
その人たちも、いつかミャンマーに帰りたいと思っています。
民主化は、その条件に思えます。
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ビルマの新年、、、
とりわけ良心の囚人の母や妻のうち、いったい何人が、日々の厳しい「また、新しい一歩」を踏み出さねばならないのだろうか。
囚人は2週間に一度、15分の家族との面会を許される。
面会の準備は2,3日前から始まり、母や妻、姉妹、娘たちは、自分たちの最愛の人がビルマ監獄の過酷な管理体制を生き延びるために不可欠な食べ物と薬を買い求め、料理し、荷造りにとりかかる。
自分の故郷から遠く離れた獄に入れられている不幸な人達は、せいぜい月に一度の面会しか望めない。
八十歳代の母親たちは、この苦しくも楽しい旅を定期的に行ってきたが、それも家庭のくつろぎと心を込めて調理された食べ物から何年も遠ざかっているためにげっそりとやせてしまった息子と、愛情のこもったまなざしと励ましの笑顔をかわそうと心に決めてのことである。
若い妻たちは、美しい顔に不安のしわを刻ませながらも、つとめて元気で健康であるというけなげなイメージを振りまくが、その間、引き裂かれた家族が、直面する苦しさを、つい漏らしてしまわないよう、あれこれ、言葉を選んでいるのである。子供たちは、とりとめのないおしゃべりをするが、それも、異常な事態を何とかありふれた光景に見せかけようと努力する年長者を、しらずのうちに見習っているのである。
、、、、、
、、、、、
1990年の総選挙で15人の女性候補が当選した。15人は全て国民民主連盟(NDL)の所属だった。
このうち5人が選挙後まもなく投獄され、一人が運動資金が不明朗であるとの口実で失格とされた。
かくして選挙から数カ月のうちに女性国会議員の三分の一が、その地位と自由を奪われた。
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※ガイドさんに頼んで、、スー・チンさんの自宅の前まで行ってもらった、、、
ガイドさんによると、NDLの事務所も行けますよ、、ということであった。
大きな家である、、新聞で見たように塀で覆われ、、門は鉄の扉で閉まっていた。
ただ、、インヤー湖という、、大きな湖のほとりにある邸宅は、、、隣にはアメリカ大使館があり、、
そのとなりには、ヤンゴン大学があり、、近くには私には泊れなかった高級ホテルがある、、、
セドナホテルヤンゴンには、みずほ銀行や、三菱UFJ銀行もあり、、、高級住宅地という風情ではある、、、、
そのことと、、、先の獄中の同志の苦しみを、、考えると、、、スーチーさんが抱える大きな負担が見える、、
最近の、、現実路線とも言われる彼女の言動を、、見ると、、、もう、、これ以上犠牲者を出してはならない、、
そんな、、決意が見られる、、2年後には大統領選挙が待っている、、、
ガイドさんに聞くと、、、、大統領になるのではないか、、、といった、、、
そのガイドさんだが、、、スーチーさんの自宅前では車から、降りてこない、、、それどころか、、車に身を隠している、、、一人で写真を撮りまくったが、、デジカメの操作ミスで、、全て消去した、、、。
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ここで、、、ジョークとして写真を載せちゃいましょう
<バンコクのサイアム・オーシャン・ワールドにあるマダム・タッソー館の蝋人形ですが、、>
獄中入りになるかな、、、、。
ついでに、、、こんなのも、、、
—–書きかけです、、————–
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