今や、、当然必要だろう、、と思われる取り調べの視覚化だが、、未だに採用されていない、、
吉田松陰と言う英雄にして、、結果的には、、口書きに書判(調書に書名)せざるを得なかった、、
我ら弱者においてをや、、、だ、、、、。
—江川 紹子—-copy–
吉田松陰とPC遠隔操作事件~取り調べの可視化を巡って(江川紹子) - エキスパート - Yahoo!ニュース
幕末の思想家にして教育者だった吉田松陰は、安政の大獄のさなか、老中暗殺を企てた罪で斬首された。刑執行の直前に書き記した遺書「留魂録」には、取り調べられた時の状況が記載されている。〈口書(くちがき)読聞
〈口書(くちがき)読聞かせありて、直ちに書判(かきはん)せよとの事なり。…吾が心にも非ざる迂腐(うふ)の論を書付けて口書とす。〉
処刑の直前に書かれた『留魂録』
「口書」とは、今で言う供述調書のこと。大した尋問もないままに作成された調書を読み聞かされ、すぐに署名を迫られた、と松陰は書く。しかも、その内容たるや、松陰がやってきたこと、考えてきたことの大切な部分は書かれず、心にもない愚にもつかない論が書き付けられていた、というのだ。
松陰は、これに続けて、申し立てても仕方ないと思い、黙ってはいたが、はなはだ不満であると訴えている。老中を待ち伏せて襲う計画については、松陰が自ら申し立てた。ただし、これは攻撃を意味する「要撃」ではなく、自分の命を賭して諫める「要諫」だったと主張。ところが、言ってもいない事実が「口書」に盛り込まれた時には大いに反論したようだ。
〈事遂げざる時は鯖侯(=老中・間部詮勝)と刺違えて死し、警衛の者要蔽(ようへい)する時は切払ふべきとの事、実に吾が云わざる所なり。然るに三奉行強ひて書載して誣服(ぶふく)せしめんと欲す。誣服は吾れ肯へて受けんや。是を以て十六日書判の席に臨みて、石谷・池田の両奉行と大いに争弁す。吾れ肯へて一死を惜しまんや。両奉行の権詐(けんさ)に伏せざるなり〉
現代語訳をしてみると、次のような感じだろうか。
(「諫言が受け入れられない場合は、老中と刺し違えて死に、警護の者が邪魔立てした時には切り払うつもりだった」とは、私は絶対に言っていない。それなのに、3奉行があえて供述調書に記載し、無実の罪に陥れようとした。無実の罪を受け入れられようか。それで私は、十六日に調書に署名する席で、二人の奉行と大いに論争した。命を惜しんでいるわけではない。両奉行の権謀術策が承伏できなかったのだ。)
取り調べの時に自分は吟味役にちゃんと説明し、吟味役も「分かった」と言っていたのに…と松陰は憤慨する。しかし、抗議は受け入れられず、結局松陰は抵抗を断念して、署名に応じる。
取り調べで作成される調書を巡る問題は、江戸時代以来の”伝統”と言えるのかもしれない。録音や録画の技術のない時代、松陰は、遺書の中で自らの体験を書き残すことで、当時の取り調べ状況を可視化した、と言えるだろう。
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※「二十一回猛士」
松陰はこの「二十一回猛士」の号も好んで使った。自分の生涯に「二十一回」の「猛」を発する行為をするというわけである。すでに上記の三つの罪(東北脱藩旅行、無資格で藩主に上書、下田密航)を犯したが、まだ十八回も残っている。
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