「大連」その4 旅順、203高地

仕事も終わったので、、IT氏が観光案内をかってくれた、、、、

朝から、、もり沢山のスケジュールです、、

■大連駅
もともとロシアが敷設した東清鉄道であるが、、日露戦争で日本が勝利し、、明治38年(1905)ポーツマス条約で利権を獲得した、、。
1907年には、南満州鉄道株式会社が創業する、、初代総裁は、、後藤新平が就いた。
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<昭和12年(1937年)当時の「大連駅舎」 wiki<転写>>
日本の上野駅がモデルとなっている、2階が出発、1階が到着ホーム
現在の大連駅は、、、ほとんど変わっていない、、、。


■大連駅裏市場
大連駅の正面は、勝利市場という観光客の多いショッピングモールらしいが、、行ったのは、駅の裏側、、
そして、、卸売市場、、御徒町と築地場外を合わせたような、、活気のある場所でした、、
とにかく、、なんでも、、ある、、、反日運動の最中でなければ、、店のおばちゃん達をひやかしたのに、、
今回は、、写真もはばかる、、。

■オリンピック広場 電子城
なにせ、、車で走りまわるので、、位置が掴みずらい、、後で地図と記憶を確認する
中山広場の近くのオリンピック広場 その駐車場に地下入り口がある、、、
地下は、、電脳街だ、、上海の電脳街が携帯電話とグルメに変貌していたのと違い、、オール電脳街だ、、
IT氏も、、、よく部材を購入しに来るという、、、
大連には、もうひとつ長興電子城というのがある、、。
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<オリンピック電子城入り口 <転社>>

■旧ロシア人街
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かってのロシア官庁街にロシア建造物をレプリカしたもの
なにせ、、すべての建物が、、お土産やさん、、、になっている観光地、、、

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ここでは新旧のロシア風建物を見ることが出来ます。 1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の「ダリーニ」と名付けました。大連の都市構造の基本はロシアによって作られたわけである。1904年に日露戦争が始まると、大連はわずか3ヶ月で日本軍に占領された。日本統治の後、1945年から10年間、大連は再びソ連に接収された。日露戦争までの僅かな期間に完成した建物がここにはある。2000年に古い建物なども活用して復元整備された町並みで、まるでテーマパークのような雰囲気である。というか、実際にテーマパークみたいな施設もあるが、古いのかレプリカなのか、まったくの新規建造物なのか、よく解らない建物が並んでいる。
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<ロシア風通りのそばにあった旧東清鉄道汽船会社>
現在は大連芸術展覧館、、立ち止まっていたらおばちゃんが新聞を売りに来た、、


■星海広場
この観光スポット、デートスポットは、、海岸を近代的に改造した、、お台場、、といったところだろうか、、
バックには、、多くのマンションが建設中だ、、、日本でいう億ションだが、、売れ残っているような話を聞く、、
イベント会場の大連現代博物館が隣接する。
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■ソフトウエアパーク
星海広場から西へ4km移動すると、昨日のテクノパークやソフトウエアパークに出る、、、
日本、欧米、中国のソフトウエア会社が集積する、、
国家レベルのソフトウエアパークは国内に11か所あるらしい、、
上海、北京、大連、広州、杭州、西安、成都など大学のある人材供給が可能な場所だ、、

近くには大連理工大学、大連海事大学、東北財経大学、などがあり、、学生を採用できる、、
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IT氏が出資するソフト開発会社では、若者達が、、ゆったりと働いていた、、、
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■旅順
大連の中心部から、、遼東半島の先端に向かって40kmあまり、、かっての軍港は、、今でも軍艦が浮かび、、街には兵舎や、、軍人の住居地域があり、、兵隊の歩行訓練に出会ったりする、、

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もともとは人家もまばらな、寂しい漁村であったが、1878年に清の北洋艦隊の根拠地となったことから、町が形成された。日清戦争中の1895年には、日本陸軍に占領された。この際、欧米記者によって、日本軍が行ったともいわれる旅順虐殺事件が報道され、問題となったが、日本政府は事実無根であるとした。下関条約により、旅順を含む遼東半島は日本に割譲されることに決まったが、三国干渉によって中止となる。1900年の北清事変ののち、ロシアの租借地となり、ロシア海軍の太平洋艦隊の根拠地として、軍港・要塞として開発され、ついには人口1万人を超える都市となった。

日露戦争においては、日本軍による旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦および旅順攻囲戦が起こった。市郊外の丘陵である203高地などでの激戦の末、最終的に日本軍が莫大な損害の後に勝利したことにより、1905年1月に旅順を占領した。旅順北郊外の水師営で停戦条約に調印し、乃木将軍とステッセル将軍が会見している。日本は同年のポーツマス条約において、清に対する租借権を正式にロシアから引き継いだ。はじめ、旅順には関東都督府が置かれ、その後、大連へ関東州の諸施設が移るに従い、旅順は日本の軍事的拠点となり帝国海軍により旅順要港部がおかれ、龍河・旅順駅・白玉山一帯をはさんで、東の旧市街と西の新市街は大いに発展した。

第二次世界大戦末期の1945年、ソ連軍が侵攻し、旅順を占領した後は、ソ連海軍の太平洋艦隊の軍港として中華民国に認めさせた。1950年に隣接する大連と金州と合併、旅大市となり、1955年に中華人民共和国に返還される。1981年に現在の市名である大連に改称され、大連市旅順口区となった。
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旧関東司令部跡は、博物館となっており、、いくつかの建物ごとに展示内容が違うが、、関東司令部跡は、
当時の写真が展示されている。

※後日追記予定


■203高地

標高203m
ここから、、旅順港が一望できる、、、
観光案内の女性が、、無料だからと言って、、、
乃木将軍の活躍と、英雄ぶりを語る、、
また、、乃木希典は、自作の漢詩で203高地を二〇三(に・れい・さん)の当て字で爾霊山(にれいさん)と詠み
砲弾で忠魂碑を建てた、、、結局割高のお土産を買うことに、、、なるが、、まあ、、仕方ない。
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———wikipedia——
1904年12月5日に日本軍が占領し、永野修身海軍大尉が指揮した陸上からの砲撃でロシア東洋艦隊を壊滅させたというのが通説だが、陥落後の陸海軍による沈艦への調査では、ほとんどの艦は命中しても艦底に損害を受けておらず、浸水などは起こしていなかった(陸軍省軍務局砲兵課石光真臣や武田三郎、上田貢らが調査を開始、1906年11月最終報告)。

使用した二十八糎砲の砲弾が古く、信管の動作不良もあったようで不発弾も多かった。報告を受けた陸軍省技術審査部長有坂成章は砲弾の全面変更を指示している。海軍側の調査では、多くの艦艇がキングストン弁を開いていた事が確認されていたようで、報告では自沈処理されたとなっている。

また第一次総攻撃前に行われた黄海海戦で、旅順艦隊は既に戦闘不能な程の大損害を被っており、旅順港の施設では修復は不可能だった。
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とか、、


※後日追記予定

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