目的は、、ソーラーライトの仕入れ交渉だ、、、
「大連」にある、、某社に行ってくる、、幸いにも、、IT関連の友人が、、数年前から、、ここ「大連」に事務所を開設して、、ビジネスを展開している、、彼は月に2週間ほど、、大連に「常駐」しているので、、この地域の環境を把握している、、、
彼の予定に便乗して、、日程を組んだ、、、。
※最近の尖閣諸島を巡る、、、日中の緊張は、、気になる、、、
それも、、時代よ、、時の流れの中に居るだけよ、、と、、
ジーさんになって、、、少し、、度胸がついたのかな、、、。
さて、、、準備だ、、、。
まずは、スマホが使えること、、、旅行でのパソコン+携帯+バッテリ+カメラ持参は昔、、苦労したので、今回端末はスマホのみとする。
とは言っても、、毎回のようにアクシデントで苦労するのでチェックはしていくことに、、
まずは、スマホの「設定」
①無線とネットワーク
②モバイルネットワーク
③グローバル機能
④エリア設定
⑤、、、、、ここからが問題
○日本
○海外UMTS
●海外GSM
○海外自由
の4択になる、、困った、、なんのことやら、、、
面倒だから、、近所のAUストアへ、、、、
いろいろAUサイドに問い合わせて、、中国大連はGSMに設定してください、、、と、、なった。
<遼東半島の先端、、渤海に接す>
–wiki——————-
大連市(だいれんし、中国語:大连市、英語:Dalian)は、
中華人民共和国東北部遼寧省の南部に位置する地級市(地区クラスの市)。経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されている。市区人口は211万、都市的地域の人口は325万人であり[1]、遼寧省では省都の瀋陽市に次ぐ大都市である。
——————–
次に充電器の環境だ、、大連は220Vなので、変圧器を準備する必要がある、、、、
また、、コンセントのアダプターも必要だ、、、
更にバックアップに乾電池の充電器も持参する、、、カメラは、単3電池が調達に便利だ、、過去に専用バッテリなどのカメラを持参して、、苦労した、、それ以来、、カメラの選択では、電池は単三に決めている。
スマホのカメラと2重化できる。
大連だが、、、今回はビジネス絡みとなったが、、、、興味深い地域だ、、、
この雑誌は、4月号なので、その頃に買ったものだがタイミングがいいと思う、、
明治38年(1905年)9月5日
日露戦争終結の講和が調印された(ポーツマス講和条約)、、、
この戦争に勝利して、ロシアから手に入れたのが、、、軍港「旅順」、都市開発の始まった商業都市「大連」、、
そして、、、満州の大動脈として建設中の東清鉄道、、、後の満州鉄道である、、、、
清国にとっては、、、ロシアが日本に代わっただけの話だが、、、後に大きな歴史が、、、待っていた、、、
地図でみると、、緯度としては、、「仙台市」程度に見える、、、
はじめての「大連」出張旅行だが、、、この明治-大正-昭和に渡る、、、帝国の時代を思いながら、、出張報告をしたい、、、と思っています。
—————————
※9/16(日)それにしても、反日デモが過激になっている、、暴徒と一般人の感覚は違うと思うが、、
出張の日9/18は、、、満州事変の「柳条湖事件勃発の日」でもあり、何らかのイベントと反日運動があることは考えられる、、
■柳条湖事件
※昭和6年(1931年)9月18日午後10時、、奉天の柳条湖付近で、、南満州鉄道(満鉄)路線が爆破された、、
満州駐留の関東軍から、、、中国軍の犯行である、、、という発表がなされると共に、、
中国軍の北大営(ほくだいえい)と、、奉天城を攻撃、、、満鉄沿線要地の占拠が実行された、、、。
この、爆破が関東軍の謀略であったことは知られている、、、
爆破は小規模で、、レールの片側80センチが破損したものであるが、、、
板垣征四郎高級参謀、、石原莞爾(かんじ)作戦主任参謀らの指示であった、、、。
満州事変勃発、、、、、、、である。
■満鉄
先の日露戦争で日本はロシアから東清鉄道南部と安奉線の2つを手に入れた、、、。
ここで、登場するのが、、、奥州水沢出身の、、後藤新平、、、である。
台湾の植民地政策に成功した後藤は、満州の植民地プランに入った、、、これは、イギリスの東インド会社をモデルにしていたという、、、。
半官半民の経営ではあったが、、、初代満鉄総裁になった後藤の先見性によって、、、満鉄は発展する、、、。
ヨーロッパに繋がる国際路線、、国際都市大連の変貌、、外国人を意識した高級ホテル「ヤマトホテル」、、炭鉱、、病院、、学校、、、
「満鉄」は、、巨大コンツエルンとなって、、、沿線を発展させていった、、、。
撫順炭鉱は、、年産1000万トンの採炭となり、最大9万人の労働者を抱え、、
大連では、機関車の車両工場も開始、、、1928年には、従業員5000名を抱える巨大工場となっている。
大連港は、、関税の無い、、自由港で、、東洋一の大埠頭を備えていた、、、、。
※これらの、、構想力は日本での関東大震災の首都復興計画でも発揮され、、、昭和通り、靖国通り、明治通りなどの、、道路整備は、、、後藤の計画として実行されたことも、、、有名である、、、。
※———Wikipedia—————
後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) – 昭和4年(1929年)4月13日)
は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。
伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯爵)。位階勲等は正二位勲一等。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣、内務大臣、外務大臣。東京市第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちの日本放送協会)初代総裁。拓殖大学第3代学長。
計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名された、日本の植民地経営者であり、都市計画家である。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し、日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道を整備した。関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画を立案した(都市計画の項も参照推奨)。
後藤新平 - Wikipedia
陸奥国胆沢郡塩釜村(現在の奥州市水沢区)吉小路出身。仙台藩一門留守家の家臣・後藤実崇の長男。江戸時代後期の蘭学者・高野長英は後藤の大叔父に当たる。甥に政治家の椎名悦三郎、娘婿に政治家の鶴見祐輔、孫に社会学者の鶴見和子、哲学者の鶴見俊輔、演出家の佐野碩をもつ。
胆沢県大参事であった安場保和にみとめられ、後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務しのち15歳で上京し、東京太政官少史・荘村省三のもとで門番兼雑用役になる。安場との縁はその後も続き、安場が岩倉使節団に参加して帰国した直後に福島県令となると後藤は安場を頼り、16歳で福島洋学校に入った。
———————————-
コメント