京都徘徊–その4(信長の叡山焼き討ち、、、と、、ポルトガルのアジア植民地政策)

2011.11.30の記
午前中は、木屋町通、土佐藩邸跡周辺で、幕末の気配を感じながら散策、、
京都徘徊-その3(木屋町通り、、土佐藩邸跡付近)
2011.11.30 9:30ホテルを出る、、、、ちょっと昨夜の疲れが出ている、、、やはり昨夜の最後の酒がよくなかった、、 喫茶店でコーヒーを飲んで、、京都駅へ、、地下鉄で三つ目の烏丸御池で下車、、、ここから ゆっくりと、、、京都市役所前ま...

午後は叡山に向かった、、
京阪三条駅から出町柳駅へ、、、叡山電車に乗り換えて、、八瀬叡山口駅で下車、、ケーブルカーに乗り換えて比叡駅、、、ここから、また、ロープウエイに乗って比叡山頂駅まで行きます、、、
ガーデンミュージアム横を歩いて、、山頂のバスターミナルに出る、、、バスで10分、、ようやく、、延暦寺バスセンター、延暦寺東寺に着きます、、、。
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<ケーブル八瀬付近>

比叡山延暦寺が、織田信長(1534-1582)軍勢の焼き討ちによって、ことごとく消失したのは知られている、、、。
国宝の根本中堂が現在の形に復建したのは江戸時代(寛永19年(1642年)徳川家光によって再建 )になってからだ、、、
 
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<国宝 東寺 根本中堂、、江戸時代に再建>

■叡山焼き討ち

——wikipedia—–
戦国末期に織田信長が京都周辺を制圧し、朝倉義景・浅井長政らと対立すると、延暦寺は朝倉・浅井連合軍を匿うなど、反信長の行動を起こした。

元亀2年(1571年)、延暦寺の僧兵四千人が強大な武力と権力を持つ僧による仏教政治腐敗で戦国統一の障害になるとみた信長は、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちした。

これにより延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

この事件については、京から比叡山の炎上の光景がよく見えたこともあり、山科言継など公家や商人の日記や、イエズス会の報告などにはっきりと記されている(ただし、山科言継の日記によれば、この前年の10月15日に浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火したとあり、延暦寺は織田・浅井双方の圧迫を受けて進退窮まっていたとも言われている)。

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■延暦寺の武装化

※延暦寺の武力は年を追うごとに強まり、強大な権力で院政を行った白河法皇ですら「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」と言っている。

山は当時、一般的には比叡山のことであり、山法師とは延暦寺の僧兵のことである。

つまり、強大な権力を持ってしても制御できないものと例えられたのである。延暦寺は自らの意に沿わぬことが起こると、僧兵たちが神輿(当時は神仏混交であり、神と仏は同一であった)をかついで強訴するという手段で、時の権力者に対し自らの言い分を通していた。

また、祇園社(現在の八坂神社)は当初は興福寺の配下であったが、10世紀末の戦争により延暦寺がその末寺とした。同時期、北野社も延暦寺の配下に入っていた。1070年には祇園社は鴨川の西岸の広大の地域を「境内」として認められ、朝廷権力からの「不入権」を承認された[1]。

このように、延暦寺はその権威に伴う武力があり、また物資の流通を握ることによる財力をも持っており、時の権力者を無視できる一種の独立国のような状態(近年はその状態を「寺社勢力」と呼ぶ)であった。

延暦寺の僧兵の力は奈良興福寺のそれと並び称せられ、南都北嶺と恐れられた。

延暦寺の勢力は貴族に取って代わる力をつけた武家政権をも脅かした。

従来、後白河法皇による平氏政権打倒の企てと考えられていた鹿ケ谷の陰謀の一因として、後白河法皇が仏罰を危惧して渋る平清盛に延暦寺攻撃を命じたために、清盛がこれを回避するために命令に加担した院近臣を捕らえたとする説(下向井龍彦・河内祥輔説)が唱えられ、建久2年(1191年)には、延暦寺の大衆が延暦寺と対立した鎌倉幕府創設の功臣佐々木定綱の処罰を朝廷及び源頼朝に要求し、最終的に頼朝がこれに屈服して定綱が配流されるという事件が起きている(『吾妻鏡』ほか)。

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■叡山は信長の前に、、2回焼き討ちにあっている

※(1435年)2月、先の4人を京に招いた。彼らは義教を疑ってなかなか上洛しなかった。しかし、管領の誓紙が差し出されたために4人が出頭したところ、彼らは捕らえられて首をはねられた。これを聞いた延暦寺の山徒は激昂し、抗議のため根本中堂に火をかけ、24人の山徒が焼身自殺した。

比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)
明応8年(1499年)7月11日に細川政元が行った比叡山延暦寺を焼き討ちした事件。

※明応の政変(1493)により細川政元らが推す足利義澄(義高)と、、義視の嫡子の足利義稙(義尹)との政権争いで、、、延暦寺が義尹の支持に回ったため、細川政元は、、、延暦寺と対立することとなる。

、、、、ついに内衆の赤沢朝経と波々伯部宗量に延暦寺を焼き討ちするように命じた。

2人が率いる軍勢は11日に一斉に比叡山に攻め上り、根本中堂・大講堂・常行堂・法華堂・延命院・四王院・経蔵・鐘楼などの山上の主要伽藍をことごとく焼いた。、、、、

後に織田信長も比叡山を焼き討ちにするが、その時には言うほど山上に建物は建っていなかった[要出典]。赤沢と波々伯部の焼き討ちが徹底していたためである

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※既に、、叡山は、信長にとって聖域では、、、、ない、、、。

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一度は、浅井、朝倉との和睦によって叡山攻めを退いたかに見えたが、それは、眠気覚まし程度の時間であった、、、、

1571.09
「これより、あげて瀬田の船橋を押し渡り、坂本に向かい、夜にかけ叡山を取り詰め、焼き尽くすでや、、
根本中堂、山王二十一社、もとより、俗人老若とわず、、
一人たりとも逃がすまいぞ、なで斬りといたすのだぎゃ、、
湖上には軍船をつらね、舟にて落ち延びる者あらば、、ひっ捕らえい、、
比叡の山をば無人の境となし、淨めるのでや、、」

信長を正視できる将は、もう、、誰もいない、、、。

延暦寺の掃討作戦には、当初は反論を試みる将もいた、、、
佐久間信盛、武井夕庵らであった、、

「、、おそれ多きことながら、、比叡の山は顕蜜兼学の大道場にて、皇武両門の祈願の地にござります。
その霊験は並びなく、、山徒我意を欲しいままにいたせしことも多かりしと言えども、、、
上代の帝王も、、「朕が心にかなわぬは、加茂川の水と双六の采と山法師なり」、、とのたわせられ、、度々の狼藉も,ご宥免なされ、穏便にさしおかれし先例しばしば、、、、それほどの聖地をば、いま亡ぼされば、国家の旧例をたがえ、、天下の人望を失うこととなりますれば、、なにとぞ、いま一度のご勘案をあそばされて、、ちょーでいあすわせ」

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まあ、、これは、当時の常識であったであろうが、、、、歴史を動かすのは常識ではない、、、
信長は、、このような常識には、、、、、
「知ったことを、、、」、、そんなことは、、判っておるわ、、ということであろう、、

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かって、、平安遷都、、桓武天皇は、、最澄(767年 – 822年)をして、近江比叡山延暦寺を開山した、、国立寺院(役所)あった、、
、国家鎮護、、、律令国家において、、「王法、仏法が双翼不二」となって国を治める役割を担ってきた、、、

つまり、朝廷貴族と国立寺院は、、利害共有によって国を支えてきた、、、。

やがて武家の勢力が権力を支配して、、、朝廷が衰退するにつれて、、、延暦寺の膨大な所領も、、地元土豪によて横領され、、実質的な王法、仏法の権威は、、次第に、失われていきます、、

「天皇は、、超越的存在であり、、延暦寺は鎮護国家の聖域であると、、、、」

古代的、伝統的な影響力だけが、残された、、、

鎌倉幕府(1192-1333)が滅び、、、、京都室町に室町幕府(足利将軍:清和源氏)が成立する時代となる、、、
天皇家は「南朝(楠正成らが擁立)」「北朝(足利尊氏らが擁立)」に分断、、、天皇は交代制になった、、、

やがて、、、応仁の乱を境に、、、将軍の権威は失墜し、、、世は、、、戦国時代に突入する

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戦国時代という、、戦乱につぐ戦乱、、、人は何かを失っている、、、狂っている、、、
しかし、、、言葉を変えれば、、異様な活力に満ちている、、

鎌倉幕府(1192-1333)北条氏が滅び、、足利尊氏が室町幕府(1333-1573)を開く、、
天皇の交代するという「南北朝時代」を得て、、1392ようやく北朝に統一される、、、

このころ、、、足利義満が、金閣寺(1397)を、、足利義政が、銀閣寺(1489)を建造している

1467 応仁の乱

1543 ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝来する。薩摩との貿易もとめる
1549 フランシスコザビエルが、、日本にキリスト教を伝える
1553 川中島の戦い
1560 桶狭間の戦い キリシタン大名の始め
1568 織田信長入京

海外では、、モンゴルが元(1271-)と称し、、オスマントルコ(1299-)が成立、

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■信長はキリシタンか?、、無神論者か?

※信長(1534-1582)の誕生の10数年前に、、、「鉄砲の伝来とキリスト教の伝道」がある、、、

これは、成長期の信長の精神構造に大きく影響していると思われる、、、。

信長や、秀吉の初期は、キリシタンに対して、かなり友好的だ、、、

※ セミナリヨ 天正9年(1581)
信長死亡の1年前、、安土城城下町に建設されたキリシタンの神学校で、諸侯の子弟を中心に、ラテン語や西洋音楽・銅版画などを教えた。その位置については、下豊浦字敷来の大臼(ダイウス)と呼ばれる地に比定されており、ダイウスとはゼウスの転訛とされる
また、最初のセミナリオは有馬に設立(1580)されているようだ、、、

※天正少年遣欧使節( 4人の少年使節 1582年)
信長死去の3ヶ月前、、
巡察師のヴァリニャーノは第一次日本巡察を終え、日本を離れる際、日本の少年たちを使節としてヨーロッパへ渡らせ、ローマ教皇と謁見させることを考えました。

使節の目的は、ヨーロッパ諸国のイエズス会の布教実績を見せること、又、ヨーロッパにおけるキリスト教世界を少年たちに見せ、高い評価を得させ日本の同胞に語らせる、というものでした。、、、帰国後、、1名を除き、、司祭になっている、、。

※織田信長の弟:孫は、、、、キリシタン大名です、、。

織田有楽斎(ジョアン) – 織田信長の弟。利休七哲の一人。有楽斎は号。[要出典]

織田秀信 – (ペトロ)三法師、織田信忠の嫡男、信長の嫡孫。キリシタン大名として、家来も入信、秀吉時代は活動を中止していたが、その後、、教会の建設や、司祭養成所建設など、、宗教活動をしている、、

織田秀則(パウロ) – 織田信忠の次男、信長の孫。

※秀信、秀則とも関が原では、西軍に属し、、豊臣家滅亡後は、改易され、浪人、出家している、、

※細川ガルシャ(たまこ):明智光秀の娘(三女)
、、大坂に滞在していたイエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで侍女の清原マリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意)という洗礼名を受けた。
しかし、後に秀吉はバテレン追放令(1587)を出し、大名が許可無くキリスト教を信仰することを禁じた、、が信仰を貫いた、、。

関が原の合戦で、、人質にされそうになるなど、、身の置き所がなくなり、、自害、、。
38歳。辞世の歌として、「散りぬべき時知りてこそ世の中の花も花なれ人も人なれ」と詠んだ。

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■ ロレンソ了斎(ロレンソりょうさい)
1526年-1592年2月3日は、
信長からキリスト布教の許可を得る

肥前白石(現在の平戸市)出身の了斎は、目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていた。

彼の人生に転機が訪れるのは、1551年(天文20年)のことである。彼は山口の街角でたどたどしい日本語を話す男の声を聞いた。
その声の主こそはフランシスコ・ザビエルであった。ザビエルの話を聞いていくうちに了斎は話の内容に不思議な魅力を感じるようになっていった。
キリスト教についてのさらに深い説明を聞いた了斎はザビエルの手によって洗礼を授けられ、ここにロレンソという洗礼名を受けた。
以後、ロレンソと呼ばれることになる彼はキリスト教布教に生涯を捧げることになる。

ザビエルが日本を離れた後もロレンソはイエズス会の宣教師たちを助けて働き、1559年(永禄2年)、、、、、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。
また、、、当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会って布教許可を得ることができた。

さらにキリスト教に対し好意的でないという評判のあった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた、、、ロレンソが派遣された。ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答えた。論議の審査のため、その場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き、さらに教えをこうた。

このような経緯をへて高山友照(ダリヨ)は息子高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。
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<高山右近(ユスト)像、1615.02.04マニラにて滅す>

1563年(永禄6年)に正式にイエズス会に入会、修道士(イルマン)となった。

1565年(永禄8年)には九州に赴いて宣教活動を行い、1569年(永禄12年)に再び畿内へ戻った。ここで「織田信長から布教の許可を得る」ことができ、、、、

ルイス・フロイスとともに「信長の面前」で反キリシタンの論客であった朝山日乗(日乗上人)という僧と議論を行い、これを論破している。
このとき、日乗は逆上して刀を持ち出したところを信長の家来に取り押さえられている。

※皇室との仲介で、信長の信頼を得ていた朝山日乗は、この事件後に失脚する、、西方教会からは、、ルシフェル(悪魔)と呼ばれている、、

やがて、、信長が死去し、、秀吉の時代、、1587年(天正15年)に伴天連(バテレン)追放令を受けて九州へと移り、1592年(文禄元年)に長崎で死去した。

琵琶法師として日本の伝統文化や仏教・神道の知識が深かったロレンソは、その知識を生かしてキリスト教を布教し、戦乱の世にあって救いを求め、キリスト教の教えを知ろうとした多くの人々の疑問に答えた。
当時の畿内や九州で多くの洗礼者が出たことはロレンソの布教活動に負うところが大きい

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※ロレソンと日乗が、、どのような法論を繰り広げたか判らないが、、なんとも簡単な結末になっている、、、。

思うに、、、日乗が、、信長と「皇家」との仲介役を担当していたとすれば、、、なおさらながら、、記紀(日本書紀、古事記)に関しては、、この時代の識者として、常識になっていた、、であろう、、が、、

、、、記紀は、、、

旧約聖書に記述されているヤコブの系図と、日本神話に出てくるニニギの記述が、驚くほど一致している。など、など、、、、。

拙者Blog「古事記とシュメール語、、、」参考
古事記とシュメール語(日本人はシュメール人だった) | 東葛の風
言葉の翻訳から発生する意思の誤解は、当然というか、間違いを起こすことはあるでしょうね。 ※いま科学や学問の進化が、翻訳を更新して、歴史を引っくり返すことがあるかも知れません。 いや、、、歴史の真実と虚とを、とんでもない展開で説明するのです。

記紀の「神代」に関する記述は、旧約聖書との類似性が知られている、、、

また、、、「景教」は、キリスト教のネストリウス派の宗教であり、聖徳太子の時代には、福音書の内容などが日本に伝わっていた。

聖徳太子の家庭教師であった秦河勝(はた・かわかつ)は、秦氏で「景教徒」であったと言う。
ことなど、、、信長の時代より、、はるか以前から、、秦氏の渡来地には、景教(キリスト教)の影響はあると思われる、、

日蓮宗の日乗にすれば、内外相対の「外」に関する、知識、、
特に、、日本が西洋との直接的な出会いが少なかった時代に、、イエズス会の持つ熱心な宗派的議論(カトリック男子修道会)に、、噛み合うはずもない、、、、。

知らず知らずに、その土俵に乗れば、、宗論は危ういかも知れない、、、。
信長の興味を飛躍させる事件であれば、、も少し、、内容が知りたいところだ、、、。

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■イエズス会とポルトガルの植民地政策

イエズス会のアジア布教とヨーロッパの大航海植民地時代との関連を言う人も多い、、
イエズス会の創設者は、元軍人のイグナチオ、デ、ロヨラという人らしい、、、イエズス会は別名「キリストの軍隊」と呼ばれていたらしい、、、

日本の僧兵が、寺社勢力の拡大を武力的に支えてきたことと、考え合わすのは、冒険かも知れないが、、、

かれら僧兵が、、ポルトガルのアジア植民地政策に加担していることは、容易に判断できる、、

「日本の鉱山は金が多く産出するので、貿易を行う場合は、それを通貨にすれば、ポルトガルは、莫大な利益を得られるでしょう」

「大阪にポルトガルの商品を収容する倉庫を造り、ポルトガルの官史をおきましょう、用地は確保できます、、、」

これら、、、ザビエルがポルトガル国王に宛てた書簡が残っていることから、、単に宗教的な活動にとどまることは無い、、、

その後、キリシタン大名とポルトガル軍隊の連携による、、豊臣政権打倒の計画もあった、、という、、メモ(?)も残っているという
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<イエズス会が作成した石見銀山地図>

その前に、、信長が、、、インターナショナルな文化に強烈な関心を持った、、とすれば、、
、、本能寺の変がなければ、日本はキリスト教社会になっていたのかも知れない、、、

それは、危機であろう、、と考える人もいるだろう、、
国益とは、、何だろうか、、考えさせられる、、

このころは、南蛮貿易が思ったより、、自由で活発な時代があったのではないか、、と思わせるが、、、

やがて、秀吉はバテレン追放令を出し、、徳川幕府は鎖国へと政策を転換していく、、、

その後の日本におけるキリシタン活動は、、興味深いが、、重すぎるので、、、触れない
、、

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天下布武をもって天下統一を進める信長には、、今の叡山は、単に権力争いの敵陣の館としか見えない、、、、

また、一向一揆を擁する大阪の「石山本願寺」も同じく、、、攻め滅ぼすべき敵でしかない、、、

「よいか、、わしが王城の鎮守を焼き払うは、去る年,越北衆在陣のみぎり、、わが雑兵、馬らの不浄にて際限もなく穢れはて、禽獣肉食の残汚わい未だに、、聖地に残るゆえだでや、、はたまた、、野田の合戦で坂井政尚らが討ち死にせしとき、、越前衆は、その首級一千余をば山門に持ち帰り、首実検いたしただわ、、、これに加うるに山門売僧どもは、年来女人をば養い、、懐妊、月水」などの不浄きわまりなし、、、
これら、神慮を恐れぬ汚わいをば消滅いたし、諸社を炭灰といたすは、天意によっての、わしがつとめだでや、、」

二人の弟を失った信長の怒りは大きい、、、

戦国の世である、、、互いに自らの大儀を述べてアジテートするは、、、兵を煽るは当然の作法、、、
すでに信長は、叡山の殲滅を決断している、、、

、、延暦寺の僧衆は、本来は山中で修行をするが、、、多くが、「坂本」に住み、、優雅な生活をいていた、、という、
この地にある、、「日吉神社」も、、、信長にとっては、、殲滅の対象であった、、、

その「坂本」が白煙につつまれ、、、地獄と化していくのは9月 日の早朝からであった、、、

日吉大社を焼き尽くしたのち、、炎は、、山を登り東塔、西塔を襲い、、、根本中堂、大講堂、阿弥陀堂、戒壇院、護持院を焼き払った、、、

叡山にいる者全て、、、高僧、貴僧、智僧を容赦なく首を跳ねた、、、、美童、美女も幼老も惨殺した、、、、洞窟に隠れる僧は、引きずり出し、、首を跳ねた、、、

屍の焦げる臭いが、、渓谷を重くよどましていた、、、。

———[下天は夢か」 津本陽からアレンジ—————-
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<大講堂 昭和39年建造 重要文化財>
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<東塔 昭和55年建造 大日如来、法華経など>

一回りして、入り口に戻ると、、、小雨が降ってきた、、、薄暗い境内は、、すこし寂しく寒い、、、
バスの本数は極端に少ない、、、

本数の多い、、、坂本ケーブル駅に向かう、、、30分おきにケーブルは出ている、、
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多くの坂本の住民が、信長の攻撃を逃れるように、、この谷を上った、、

織田勢は八王子山を取り囲み、、、
「火をかけよ、、、一物も残さず灰となし、、焼ききよめるのだや、、」
日吉大社、東塔、西塔の伽藍が火柱をあげた、、、、
4日間に渡り叡山を焼き尽くした、、、のである。

背筋の凍る思いをしながら、、、、夕暮れのケーブルカーが進む、、、
琵琶湖が見えた、、、ようやく娑婆に戻った、、、と感じる、、。

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京阪電車京津線で再び京都三条まで行く、、、距離感覚からすると、、、新宿から高尾山に行く感覚だろうか、、その帰り道といった風情だ、、、、

■先斗町
ようやく三条大橋に着いたころは、あたりは、もう暗い、、、
やっぱ、、娑婆はいい、、さあ、、、気晴らしに酒だあ、、、
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しかし、、狭い路地、、、やっぱり、、すこし不安だ、、うろうろ、、しながら時間が過ぎる、、
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もう、、ま、いっか、、値段がハッキリしてる店に入る、、

熱燗にしてもらえますか、、
生ビールと日本酒を4合ばかり飲んで、、コースの食事が終わるころ、、、もう、、すっかり出来上がりました、、、

おーい! TAX– ありがとね! 酔っ払いはご機嫌で、、無事にホテルまで帰りました、、、

今日も、、ハードな行程でした、、、

明日は、、もう近場で済まします、、、二条城と御苑に行きます、、。

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