そうだ!東北に行こう-その2(黄金の奥州藤原と義経)

世界遺産に登録された平泉の中尊寺には当然寄らねば、、、
ただ計画者のHaさんには、シルバースケジュールを要望した。

8:30に盛岡のホテルを出発、、1時間ほどで中尊寺に到着、、、
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■讃衡蔵(さんこうぞう)

奥州藤原三代(清衡、基衡、秀衡=”衡”)を”讃”える宝物”蔵”です。
平成12年(2000年)に新築され、国宝、重要文化財が保存されている。

※それでは、、ここに載らない、、奥州藤原氏最後の四代目の泰衡(やすひら)は、どうしたんでしょう、、、、、
それは、、

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三代目で父の「秀衡」は、生前に国衡、泰衡らに義経を守護するよう遺言していた、、、にもかかわらず、頼朝の圧力に、ついに屈して、、、泰衡は閏4月30日(1189)、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経とその妻子を自害へと追いやってしまった、、とされる。

更に、、、弟の忠衡を義経に同意したとして、、殺害した、、、。
その前には祖母をも殺害している、、、。

泰衡は「義経」の首を差し出す事で、鎌倉からの攻撃を防ごうと図ったが、7月19日、鎌倉は頼朝自ら、大軍を持って奥州追討に向かうことになってしまった、、、、。

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8月11日、阿津賀志山の戦いで総大将の国衡が敗れると、平泉を放棄して中心機関であった平泉館や高屋、宝蔵になどに火を放ち北方へ逃れた。
8月21日、平泉は炎上し、華麗な邸宅群も百万の富も灰燼に帰した。
平泉軍はわずか3日程度の戦いで敗走し、以降目立った抗戦もなく、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた。
22日夕刻に頼朝が平泉へ入ると、主が消えた家は煙となり、人影もない焼け跡に秋風が吹き抜ける寂寞とした風景が広がっていたという。唯一焼け残った倉庫には莫大な財宝・舶来品が積み上げられており、頼朝主従の目を奪っている。

8月26日、頼朝の宿所に泰衡からの書状が投げ込まれた。
『吾妻鏡』によると、以下のような旨が書かれていたという。

「義経の事は、父秀衡が保護したものであり、自分はまったくあずかり知らない事です。
父が亡くなった後、貴命を受けて(義経を)討ち取りました。
これは勲功と言うべきではないでしょうか。

しかるに今、罪も無くたちまち征伐されるのは何故でしょうか。
その為に累代の在所を去って山林を彷徨い、大変難儀しています。両国(陸奥と出羽)を(頼朝が)沙汰される今は、自分を許してもらい御家人に加えてほしい。

さもなくば死罪を免じて遠流にして頂きたい。もし御慈悲によってご返答あれば、比内郡の辺に置いてください。その是非によって、帰還して参じたいと思います。」

頼朝は泰衡の助命嘆願を受け容れず、その首を取るよう捜索を命じた。泰衡は夷荻島へ逃れるべく北方へ向かい、数代の郎党であった河田次郎を頼りその本拠である比内郡贄柵(現秋田県大館市)に逃れたが、9月3日に次郎に裏切られて殺害された。

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、、、、と言うもので、、100年繁栄した奥州藤原家は、文治5年(1189)に滅亡するのだが、、、一族にとっては4代目の「泰衡」が奥州藤原家を滅亡させた、、という”汚名”になった、、、ので、、、讃えるに値しないというものでしょうね、、、金色堂には、奥州藤原三代の遺体と泰衡の首級が納められている。

※源義経という、スターが平泉に逃れてきたことにより、、滅亡に追い込まれた4代目「泰衡」、、その対応の狼狽ぶりばかりが記されているが、、源平合戦という大きな戦争を勝利した後の頼朝、、、鎌倉側の奥州戦略と、、後に語られる「義経伝説」と供にもう少し、調べる必要がある、、、

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※「奥州藤原氏」100年
寛治元年(1087年)~文治5年(1189年)

藤原氏と言えば、、、中臣鎌足を祖として、、あの藤原不比等の系譜であるが、奈良時代には、南家・北家・式家・京家の藤原四家に分かれ、、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。
鎌倉時代からは、「近衛」、「鷹司」、「九条」、「二条」、「一条」などの苗字に相当する家名を名のり、その後には三条家・西園寺家・閑院家・花山院家・御子左家・四条家・勧修寺家・日野家・中御門家など数多くの多くの支流.庶流ができたが、、、奥州藤原氏は、摂関藤原とは直接的に関係は見られないが、、一族の累系であるといわれている。

※日本最高の貴称である「藤原家」を公称する奥州藤原家だが、、、、、その流れは、、藤原秀郷という武将が京から関東に下って活躍、、、その末孫に「下総の国の住人」、亘(わたり)経清という人物がいて、父と共に奥州に流れてきた、、、、この経清が安部蝦夷に破れてしまうが、、、その経清の子が「清衡」である、、、、清衡は安部一族に育てられた、、、。
少し分かりずらい、、、「藤原氏だ」と自称していたが、、、、結局は、、やや、、不安なところが残るのである、、、

※このことが、、後に源氏の棟梁の9人目の御曹司(九郎)「義経」を招聘することになる、、、、
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<秀衛の居宅を再現した藤原之郷>

地域的には、東北は大和と戦った蝦夷(えみし;毛人)の地であり、もともと稲作文化ではなく、北海道までを含む縄文文化圏として、、大和からは外国人扱いであった(近世での蝦夷=アイヌよりも広い範囲)
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※宮崎駿は、アニメ「もののけ姫」で、、ストーリーを大和政権に追われた東北のエミシの村をベースに設定している、、、

※蝦夷(えみし):については、かって「差別用語」であったことは、間違いない、、現実に近年まで少数民族問題はあった、、。

※大化の改新という、クーデターで天下をとった「藤原氏」が、敵対する「蘇我氏」の蘇我馬子、<蘇我蝦夷>、蘇我入鹿に対して、、馬子と入鹿で馬鹿と表現したり(馬と鹿に失礼だね)、、、、
<蘇我蝦夷>の名前の<蝦夷>も、日本書紀を作らせた「勝利者」が、差別的意味で、後に付けた名前であろう、、、と言われる。

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■蝦夷に関する一般的誤解と不思議

蝦夷に関してだけ、、、ではない、、征服者側(中央)が、その歴史を語る場合に、、、明らかに、差別的である、、、
蝦夷に関しては、近年さまざまな評価の修正がされている、、、
例えば、、「鎌倉、室町時代まで稲作は行われていない、、」という農学専門家もいた、、、しかし、、

東北地方における水田跡(砂川遺跡、垂柳遺跡、、)の発見により、、弥生中期には、稲作文化が開花したと言われる、、
※つまり、、、紀元前3世紀頃から紀元3世紀頃に、、この島に渡来したのは、、、南側だけではなく、、島の北側にも着岸し、、、ほぼ同時期に稲作が行われたと、、いうことではないか、、。

しかも、岩木山からの冷たい水を、一旦、溜池に入れ、、温めてから水田に流すという、、ハイレベルな農業技術を持っていた、、。

ところが、
不思議なことに、弥生後期から、遺跡が途絶える、、、そして縄文的な生活に戻ったといわれる、、。
なにが、、、あったのか、、、。
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7世紀後半には、蝦夷征討が行われます、、

蝦夷は、やがて、、大和朝廷に服従し、、一部の捕虜は関東以西に集団移配させられたりしたが、奥州では、阿部氏、清原氏が「俘囚」として残ったと思われる。、、、、その末裔でも、、ある。

その政権の基盤は奥州で豊富に産出された砂金と北方貿易であり、北宋や沿海州などとも独自の交易を行っていた様である。マルコ・ポーロの東方見聞録に登場する黄金の国ジパングのイメージは、奥州藤原氏(後に安東氏)による十三湊(とさみなと)大陸貿易によってもたらされたと考える研究者もいる。

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■弁慶堂
おそらくは、江戸時代の物見遊山時代に作られたであろうが、中尊寺の月見道を登る途中に弁慶堂がある、武蔵坊弁慶の等身大といわれている像があるが、195cm、120kgとも言われている。、、、定かな記録は無い、、、中央には小柄な源義経の像が座る。
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武蔵坊弁慶(むさしぼう べんけい 武藏坊辨慶、? – 文治5年閏4月30日(1189年6月15日))は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。

五条の大橋で義経と出会って以来、彼に最後まで仕えたとされる。講談などでは義経に仕える怪力無双の荒法師として名高い。『平家物語』では熊野別当湛増の子で、紀伊国出身だと言われるが詳細は不明。なお、和歌山県田辺市は、弁慶の生誕地であると観光資料などに記している。

元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨慶」と記されているだけで、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。
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※ここで、、、
歴史的に初代アイドルと言われる源九郎義経と、鎌倉時代を開いた源頼朝、そして藤原一族の関係を知っておこう、、、、。

まず、源頼朝と義経は、腹違いの兄弟である、、、父は「源義朝」で、、、関東、名古屋、京都に側室を持った、、

長男 義平–>関東の豪族、三浦氏の娘を母とする
頼朝–>名古屋の熱田神宮の大宮司の娘を母とする
義経–>京都の宮中の雑仕女を母とする(常盤(ときわ)御前)

※常盤は近衛天皇の中宮九条院(藤原呈子)の雑仕女で、雑仕女の採用にあたり都の美女千人を集め、その百名の中から十名を選んだ。その十名の中で一番の美女であったという。

「平冶の乱」で父義朝が殺され、常盤と3人の子が捕らえられた、、、、、
今若(8歳)、乙若(6歳)、牛若(2歳)である、、、
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常盤を引見した「平清盛」は、その美貌に打たれ、子供ともに命を助け、常盤を妾にする、、、のです。
今若、乙若は寺に入れられるが、、、数え2歳の牛若は母と数年過ごした後に、、京の鞍馬寺に入れられます、、、。
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※常盤が、捕らえられ、、清盛が、わざわざ、白州に望んだ、、、、、、、

そこで、泣き崩れている常盤は、地に落ちて雨に打たれ続けている花のようであった、、、
しかも、常盤のの掻きくどく言葉こそ可憐であった、、、自分を殺せといい、母を助け給べといい、、、
「三人の公達(こども)のお命まで助け候えとは申しませぬ。しかしながらまず私を殺してからのち、いかようにもなしくだされ。このうえ命を長らえて夜昼の嘆きを繰り返すに耐えられませぬ」

その間、せきあげる涙で、何度か絶句し、そばにいる、まだ六つの「乙若」が、母の顔を覗き込んで、「泣かずによく話を申し給え」と心配そうに言った、、、。

そのいじらしさは、平家の検察官たちの涙をさそった。
不覚にも、清盛は泣いた、、
「たすけてやれ」
この瞬間に歴史は決定したのだ、、、。

※清盛は、常盤を六波羅に召し、塗籠の夜の御座に引き入れ、その体を堪能した。
源氏の棟梁が残した情婦を抱くのだ、、、(おれは勝ったわ)という実感を味わったのであろう、、、(司馬遼太郎 「義経」)。

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<牛若の脱出>

清盛と別れた常盤は、大蔵卿の藤原長成の側室となります、、、遮那王という名を与えられた牛若は、15歳のときに、山を脱出し、、、諸国を流浪し、、奥州藤原氏を頼って、藤原秀衡に保護される、、
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※奥州から、たいそうな男(吉次)が今年も、京の三条にやってきた、、、
武者100人ほどを従えて、駿馬100頭を荷駄としている、、、、

「あの荷駄は、、ことごとく黄金ぞ!」

彼らは鴨川を渡り、三条にある屋敷に入った。

その屋敷で、その男は、こんな噂を聞いた、、、
「都のまわりの、どこやらの山で、源氏の御曹司が、姓を藤原と称し、ひそかに生きてあるということでござりまする」

※その頃の奥州には、中央の貴種の血に対する病的なあこがれがある、、、、、
都で、うだつが上がらない公卿や、藤原姓の官人が、奥州に下れば、、どれほど歓待されたか、、、一族の女をあてがい、その血を導入しようとする、、、、

吉次はひそかに思った「源氏の血は、、、何よりの都のみやげだ、、、」

※なんとか、遮那王(牛若丸)に会った吉次である、、、

「笠をとり、烏帽子をかぶれ、貴人にむかっては立ってものを言うな。それが、都の礼である」
小僧め、、、吉次は苦笑したが、、従った、さて、どうやって、口説こうか、、、

「吉次、おれを奥州に連れていけ」

遮那王から言い出した、、、、(同 「義経」)。

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一方「頼朝」は、、、、14歳から34歳まで、20年間伊豆に流罪人として過ごした、、、
死刑にされなかったのは、清盛の義母池禅尼の嘆願によって助けられたものだ、、、、
14歳の頼朝少年が、若死にした自分の息子に似ていたからだと言われる話もあるが(逆説の日本史)、、、

頼朝の母は熱田神宮の大宮司の娘だ、、、、伝手を通じて池禅尼を動かしたといわれる。

<頼朝の流罪と北条との出会い>

※伊豆流罪、、、頼朝は、この間に、、、北条時政を頭とする北条一族との、太いパイプを持つことになる、、、
娘の「政子」と「頼朝」が出来てしまうのである、、、
いや、、まあ、、それは別にしても、、、、とはいかない、、

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※兵力がない、、、流人頼朝が、復帰する道は、、、豪族の娘と通ずることだ、、そして子を産み親をひきつけることだ、、と考えた、、

最初は、伊藤祐親の娘と通じた、、、。
祐親が3年の大番勤めを終えて帰ると幼児がいる、、
誰の子かと尋ねると、、未婚のわが娘が生んだ、、、しかも今は、平家を棟梁として懸命の勤めを果たしているのに、、源氏の流人の子を、、
「あーあ、、これで我が家は終わりだ、、」
祐親は、子を始末することと、、頼朝の首をとることを決意する、、、、

哀れ、、二歳の子は、伊東の庄、松川の轟が淵に流された、、やがて、追ってが頼朝に迫る、、、頼朝は北条時政の館に助けられる、、、。

北条政子21歳、、才長けた女性であった、、が、、当時としては、やや婚期を過ぎた、、
都の高雅な風姿のする頼朝に胸を時めかす、、やがて、政子の積極さが頼朝との一夜を過ごすことになる、、、。

※北条家と坂東武者の力を背景に、源氏の再興をはかる頼朝であるが、女房の政子と舅の時政には、終始、気兼ねしながら政権運営をしていくことになる。

※頼朝には、結城朝光という実子がいた、、、乳母(寒川尼)の娘が伊豆に身の回りの世話にきてくれたときに産ませた最初の子、、本来は嫡子である、、、頼朝21歳の時である、、
しかし、、、北条家の婿となった今、政子との長子、頼家が嫡子である、、、公言できなかった、、、、宇都宮の八田毛家に預けたままである、、、

その子が15歳になったとき、北条家には内緒で鎌倉に呼び、、ひそかに自分の前で、元服させ、結城朝光と名乗らせ領地も与えた、、、父親の立場と、、婿殿としての複雑な思いが伝わってくる、、が、、、朝光は政争の外にあったため八十八歳まで生き延びている、、、、。
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<結城朝光会のHpより>
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以仁王の挙兵(もちひとおうのきょへい)治承4年(1180年)に高倉天皇の弟宮である以仁王と、源頼政が打倒平氏のための挙兵を計画し、諸国の源氏や大寺社に蜂起を促す令旨を発した、、、、、この頃から、、、、

北条時政らは、、平家の崩壊を予見していたからこそ、、歴史的な平家打倒の決意が生まれ、、、木曽義仲が挙兵するという、、予期せぬ打倒平家の先陣争いという展開になるのだ、、、、。

※ただし、、、簡単にはいかせない、、兵を挙げて間もなく、、頼朝は戦いの中で危機一髪の事態を迎えてしまう、、大場景親と伊東祐親の軍勢に挟み撃ちにされ、、、あわや絶体絶命、、、自害という場面になるのだが、、、ここで奇跡的な生還をする、、、小説のような、、、これが歴史だ、、、もし、、この場面で頼朝が自害していたら、、、歴史は変わっていたと言われる、、、。
そこに成長して、、日本史上最高と言われる軍事能力を持った、、、スーパーヒーローの弟「義経」が参戦する、、、、

「一の谷」「屋島」「壇ノ浦」での義経の奇跡の戦いによって、平家滅亡へと歴史は動いた、、、。
これも、、、義経がいなければ、、、頼朝は、簡単に平家を滅亡に追いやれなかった、、、
兵力の均衡で、、、歴史は違った方向に動いたと言われる、、、、。
<壇ノ浦の義経>

※それ以前に、、、清盛が、、頼朝の挙兵から半年後64歳で生涯を閉じたことも、、歴史の歯車なのだ、、、。

※まずは、先陣の木曽義仲(源、現、埼玉県比企郡嵐山生まれ)は、1183年に7月京を制圧、平家は安徳天皇を擁して京を離れる、しかし、朝廷対策に失敗、、後に義経率いる鎌倉勢が上洛して、義仲は討ち死にする、、。

そして、、まさか、、この時点では、、この[義経]が兄頼朝に追討され命を狙われるとは、、思いもよらないのであるが、、この時代の運命なのであろう、、、瀬戸内で敗北した義経は、、やがて、、、奥州藤原の秀衡を頼ったが、、、その「秀衡」は他界した。、、、、やがて、、、先の運命をたどる、、、。

※平家打倒のために、共に戦った頼朝と義経が、、何故に骨肉の争いとなるのか、、、興味深い疑問だが、、、詳しくは別に記す、、ここでは、、この時代の運命、、悲劇と言うほか無い、、、。

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※保元の乱(1156)
鳥羽上皇が崩じたことで、崇徳上皇と藤原頼長が政権を奪取しようと兵を集めた、が、、、義朝+平清盛、に敗退、、、

●崇徳上皇側–>源為義、為朝
○後白河天皇側–>源義朝、平清盛

ここでは、「清盛」と「義朝」は味方同士である、、、

※平治の乱(1159)
後白河天皇は、側近の信西(しんぜい;藤原通憲)を登用し平清盛を優遇して、荘園整理令を進めていったが、、、、、平治元年(1159年)12月、清盛が熊野参詣に赴き京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こした。、、、クーデターで信西は首を跳ねられ、、、成功したかに見えたが、、、しかし、、、その後、、、平清盛が官軍となり信頼の追討令を出す、、、

●白河院政派–>藤原信頼+源義朝
○後白河上皇、二条天皇派–>平清盛

※ここでは、「清盛」と「義朝」は、敵対する、、、
※清盛の勝利により、平家の天下となる、、、敗者側の「義朝」は、、頼朝、義経の父親である、、、

ああ、、、しんどい、、、流れだ、、

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祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらわす

おごれる人も久しからず

ただ春の世の夢のごとし

たけき者も遂には滅びぬ

偏に風の前の塵に同じ

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※まさに、、、、、、。

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※少し刺激的になるが、、、

拙者Blog「源氏と平家は百済系と新羅系の争い?? 」
源氏と平家は百済系と新羅系の争い??
源氏一門と平氏一門の戦いとして知られる「源平合戦」であるが なぜか合戦絵巻の華麗さがばかりが残像として残っているのだが、どうも単純ではないらしい。 ---------wikpedia------copy------- 治承・寿永の乱(じしょ...
をご覧下さい、、、。

この視点からすると、”平家VS源氏VS奥州藤原”という構図になります、、。
平安三国志と言われる所以ですが、、、
そうなると、、、”百済VS新羅VS蝦夷”となりますかね、、、
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■頼朝は「ミコシ」で、担いだのは坂東武士団

豪族が律令統治下で、、、実質的な権力を掌握し、、権力の二重構造がすすんだとしても、、、、三種の神器を受け継ぐ「天皇」「上皇」の詔がなければ、、政治を動かすことはできない、、。

これまでは、、、藤原家がそうだったように、、いかに天皇の血筋になるか、、が政権奪取になる、、。

だが、、、武士は、天皇にはなれない、、、。

混沌とした世情ではありますが、、この頃は未だ、、この島に移り住んだ祖先の意識が残っているのでしょうか、、、武士団には、地域特性が強いように思えます、、、、

この中で、、頼朝は伊豆流罪中に地方武士(北条氏)の、感覚と人脈を身に付け、、、源氏を勝利に導き、征夷大将軍になるのですが、、間もなく急死(1199.)、、、北条氏の執権により歴史は関東武士団中心の政治へと動いてゆきます、、、。

実は、、関東武士団こそ、、源氏(頼朝)を担ぎ、利用し、後に暗殺したかもしれない(頼朝は落馬で急死)実質的な戦さの仕掛け人、、当事者なのだ、、、、公卿の平氏、、そして源氏、、いずれも天皇家に入ることが、権力の到達と考えていたふしがある、、、。

しかし、、武士は天皇とは遠い、、、関東武士団は領地所有への不満を理由として、、武士の土地支配を目的に、挙兵したのだ、、、。

、、頼朝の急死の後、2代目将軍頼家は暗殺され、、三代目実朝は「蹴鞠(けまり)が仕事という傀儡となってしまった。
その実朝も親族によって殺害された、、鎌倉(幕府)は、、執権北条氏の統治時代になっていく、、、。

後に朝廷側の反乱、後鳥羽院による「承久の乱(1221)」が起こるが、、、、もはや、鎌倉(幕府)の勢力には及ばなかった、、。
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※三種の神器が無い天皇は、肩身が狭い?

wikipedia
壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡した際、安徳天皇も入水自殺したが、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだまま遂に回収されることが無かった。

伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた[1]。

また、後鳥羽天皇(上皇)の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[2]。
後鳥羽天皇(上皇)は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[3]。

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、、、多くの関東武士団は、、土地所有権が戦争目的であったとも言われる、、土地の実質的な管理権などを、次第に獲得して、、後に「鎌倉幕府」と言われる政権機能を確保していった、、、

もし、これを、、平家+百済系勢力から源氏+新羅系政治に権力移行された、、と言ったら、、、それは少し違うかも知れない、、、ここに、、実質的には、、朝廷支配が終わったのですから、、、、やはり政権が、、、天皇公卿勢力から武家勢力に大きく代わった、、でしょうね、、。

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※ついでに、、、
白地に赤丸の日本の国旗の原点は、、、源氏が旗印にしたのがルーツであると言われています、、。
ちなみに、、平氏は赤地金丸であり、、、、明治維新の「錦の御旗」が、、で似ている、、、。

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■奥州藤原「秀衡」は何故義経を保護したのか?

さて、、西国平家、関東源氏、奥州藤原氏、、、それと「天皇家」、、、それぞれの思惑が交差する、、、。

源氏と奥州藤原は、決して仲が良いわけではない、、、むしろ、頼朝は祖父のカタキとして、報復の機会を狙っていたので、、チャンスがあれば、、覇権理由はどうにでもなるのだ、、このことが、後に平家との戦いが一段落した後には、、義経追討を理由に、、奥州攻めの軍事行動となった、、、のだ。

奥州藤原「秀衡」が鞍馬山から、逃れてきた「義経」を擁護したのは、、源氏との衝突の際には、義経を大将にして楯に戦う、、保険と考えた、、、とされている、、、。

しかし、、1187年2月(文治3)義経が、、厳しい追手から逃げ延び、、平泉に入ったとされるが、、、10月には「秀衡」が死去している、、、70歳前後と推定される。

■※それでは、、義経は、、何故、頼朝から追討されることになったのか?

解り易くすると、、、、義経が先に後白河法皇に院宣を求めて、兄と戦う覚悟をしたのだ、、、。
何故?

一の谷、、屋島、、壇ノ浦、、と天才的な軍事戦略によって、、平家に勝利し、滅亡に追いやった義経であったが、、兄の激怒りを買ってしまう、、、、理由は、、

①平家側の安徳天皇が持っていた三種の神器のうち、「神剣」を海底に沈めてしまった。
②一の谷合戦の勝利に後白河法皇から左衛門少尉検非違使=判官(ほうがん)を任官される、、頼朝の許可を受けずにだ、、、。

、、何故、、兄頼朝は怒っているのか、、義経は理解できない、、、

1185年3月(文治元年)頼朝は、義経の「代官」役を解任する、、、、部下達に義経の命令に従うな、、と言う命令だ、、、義経は、あわてて鎌倉に向かうが腰越と言うところで、、追い返されてしまう、、、、。

何故?頼朝は怒っているのか、、、井沢元彦「逆説の日本史」によるとこうだ、、、、

頼朝は、「朝廷」という既存の組織、から武士の社会に「独立」しようと企てている、、、なのに、その「朝廷」から、、俺の許可もなく「任官」されたのでは示しがつかない、、、他にも朝廷は、直接「任官」するだろう、、、これは、朝廷側の分断作戦なのだ、、俺の許可なく「朝廷」から官位を受けてはならん、、、鎌倉が権力を持つためのルールなのだ、、、「武士による武士のための独立国家」という政治目的をなんと思っとるんじゃ、、、

表千家から独立して新流派を作ろうとしている時に、、旧派から資格を貰ってどうする、、、

ということらしい、、、。

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実際は、この時代の権力闘争は解らない、、

理解できないまま、、全く許してもらえず、怒る兄に、、、、ついに義経は反旗を翻し、、兵を募る、、、、が、、、思うように兵は集まらない、、やがて、、、、情況を判断して、、九州に都落ちを決意、、再起をはかろうと精鋭2百騎を率いて尼崎の港から出航したが、、、不運にも嵐により船団が壊滅する、、、
「これは、、、平家の怨念」、、、という噂が流れるほど、、、、やがて、、わずかな家来と共に、、奥州藤原に亡命の旅に、、、追手を逃れる逃亡生活の日々、、、後半の義経は、、ついてない、、、のだ。

※文治5年4月(1189)泰衡、衣川にて義経を打つ、、、。

※文治5年6月(1189)義経の首、鎌倉にて梶原景時に実見さる、、、。

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※それでも、、、義経は、事前に察知して北方へ逃亡、、首は影武者である、、、、。

※さらに、、大陸に渡ってジンギスハーンになった、、。

、、、、と言われています、、、、。

ジンギスハーン説はともかくとして、、、

何回もの逃亡生活を経験している義経である、、、、そう易々と首を跳ねられるか、、、
泰衡ともども、、、大芝居を打った、、としたら、、
悲劇の英雄、、義経伝説である、、、

、、そう思いたい、、「判官(ほうがん)びいき」は多い、、、。

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■<讃衡蔵(さんこうぞう)展示品で、気になったもの>
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華蔓(けまん)といい、、、本来はインドで生花を輪にした花輪が原型だが、、、仏具となった、、
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透かし彫りには、人の顔と鳥の身体をもった迦陵頻伽がいるが、極楽浄土(ごくらくじょうど)にいるという声の美しいめでたい鳥のことです。この鳥は極楽浄土という「別世界」を象徴(しょうちょう)するモチーフとして、平安時代の寺院でよくみることができるそうです。、、、、

※羽のある人面鳥???、、、これは、、、ギリシャ神話の「キューピット(クピード)」でしょうね?
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■紺紙金銀字交書一切教
紺の巻紙に、銀で界線を引き、、金でお経を記したもの、、、
初代清衡が1117年から8年間かけて完成したと言います、、。
素晴らしいです。
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国宝です、、、。

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■金色堂
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<金色堂 撮影禁止ですのでCOPYです>

「五月雨の降のこしてや光堂」

金色堂の脇に建つ芭蕉の句
(あたりの建物が、雨風で朽ちていく中で、光堂だけが昔のままに輝いている。まるで、光堂にだけは、五月雨も降り残しているようなことではないか)」の句碑。

芭蕉当時の金色堂は、旧覆堂(鎌倉幕府が庇護のために建造したのが最初だが、、途中改築されたようだ、、)と呼ばれる木造の覆いの中にあった、、、

現在は、、、、
1965年建設の鉄筋コンクリート造の覆堂(おおいどう、さやどう)内にあり、ガラスケースに納められて外気と遮断されている。

鮮やかに修復してある、、、屋根は科学的な検証の結果、、金箔は貼られていなかったらしい、、、
タイのエメラルド寺院を思い浮かべてしまったのは、、、、スイマセンです、、、。

豪華で、しかもシンプルなバランスのとれたデザインは、素晴らしいと、、、感じました、、、。

※マルコポーロの「黄金の国ジパング」伝聞は、ここから、、と言われているとも、、、、。

■本堂
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<中尊寺 本堂山門>
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敷地内には松下幸之助が奉納し、裏千家家元の千宗室氏が設計したという茶室「松寿庵」があります。

——-書きかけです—-

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