佐渡へ–①(佐渡金山と山師)

20110810
白馬をあとに直江津に向かう約100km、、糸魚川から北陸高速道路を利用して2時間程度でなんなく港に到着する、、

初めてのCAR FERRY乗船だ、、、楽しみ、、

4階建のビルが、、海に浮いている、、、

「直江津発–小木行き」佐渡汽船カーフェリーは、
この時期、一日2回しか出ない、、、
9;30と16;10のみ
それでも「新潟-両津行き」よりは空いているのがいい、、
当日予約で乗船できたし、2等席でも何時でも寝られるスペースが確保できた
、、

出航20分前、、誘導されるままに、船内に車を移動する、、
後で確認したが、駐車場は1階と2階部分、3階と4階が客席となっている、、
3階は2等席、4階は2等と1等席が半々、5階は特等席らしい、、

屋上のデッキに立った、、、
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たくさんのカモメが見送ってくれる、、船が銅鑼の音と供に港を離れるが、、いつまでもついてくる
まるで、、3D画面を見るように、、すぐ目の前をカモメが通り過ぎる、、、可愛い顔をしている、、ま近での対面に感激した、、どうやら、、、客の餌に慣らされて、、、すっかり人見知りしないカモメになっている、、、。
小木までは、3時間ほどかかる、、船内でゴロリと横になり1時間ほど仮眠した、、。
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代替機のスマホを頼りに、、佐渡観光案内所に、、宿を紹介してもらう、、
佐渡は暑い、、、日本全国猛暑なのだが、、、暑い、、

救いは民宿での魚三昧の食事、、、、大満足、、アワビを含む刺身、サザエの壷焼き、タイの塩焼き、焼き魚、煮魚、海草の佃煮、など、、山から下りての、この料理には思わず「うまい!」と感激の言葉が出る、、ビールと日本酒を頼まずにいられない、、、朝夕食宿泊代込み¥7000- 佐渡に来た甲斐があったというもんだ、、

20110811
■史跡「佐渡金山」見学
入館料¥800-

1601年(慶長6年) – 鶴子銀山の山師3人により発見。
1603年(慶長8年) – 佐渡奉行大久保長安の管轄となる。
1868年(明治元年) – 工部省に所属。
1889年(明治22年) – 宮内省御料局に所属。
1896年(明治29年) – 三菱合資会社に払い下げられる。
1918年(大正7年) – 三菱鉱業株式会社(現・三菱マテリアル)に引き継がれる。
1967年(昭和42年) – 佐渡鉱山のうち、相川鉱山関係遺跡が「佐渡金山遺跡」として国の史跡に指定された。
1973年(昭和48年) – 佐渡金山株式会社として独立する。
1989年(平成元年)3月31日 – 鉱量枯渇のため採掘中止。三菱マテリアルの100%子会社である株式会社ゴールデン佐渡に経営が引き継がれる。
2007年(平成19年) – 日本の地質百選に選定。

江戸時代、、金鉱山として幕府の国家事業であった佐渡相川も、明治維新後、、岩崎弥太郎の「三菱」に払い下げられ、その後現在の「三菱マテリアル」に引き継がれているが、、

■山師
佐渡金山は3人の「山師」によって発見された、、、、、

山師とは本来は鉱物資源や水資源などを産出する山岳を探し出し、莫大な利益を得ることに賭ける事を生業にする者。
しかし「一山当てる、山を賭ける」など低確率であるが当たれば利益の多い事に賭ける事をする者を指すようになった。詐欺師としての山師とは、沢山の元手は必要だが、大きな利益になる嘘のはなしを持ちかけて、資金提供や出資を持ちかけて金品を騙し取る者。、、、とある。

※今ではバクチ打ち、詐欺師の代名詞になっているが、ここは、歴史を遡る必要があると思われる、、

山岳を歩く、山法師の多くが、、鉱山発掘の知識を有していたとの話もある、、
拙著blog「空と海と」https://tokatu-kaze.com/article/201101article_7.html
のネタ本「空海の風景;司馬遼太郎」でも空海と山師との出会いが記されていたと記憶する、、
空海自身も「山師」と呼ばれているのは、、多くの温泉を掘り当てた(鉱脈の副次的産物)話や、、
空海の事業をバクチ的、詐欺的な意味で評している人もいるが、、、

※直感的には、高度な文化知識を有していた、秦氏一族や、蝦夷と呼ばれた「山人」は、鉱脈発見の知識を有していた、、、ここ、佐渡の金山の地「相川」が、その昔は「羽田村」と呼ばれていたことも偶然とは思いたくない、、。

水俣病で知られる体内毒性の強い「水銀」ですが、縄文時代から鉄、銅、金銀などの精練には欠かせない触媒であった。当時は銅や鉄、金、銀の精練度を上げるには、金属との結合性が高い「水銀」必要だった、、。
奈良の大仏の金メッキを張るのには「水銀」が使われている、、、。

※水銀が宗教的な価値と、実利的な要求があって、山師たちの探索知識を深めていったと思われる、、。

空海ゆかりの寺院「女人高野丹生(にう)山神宮寺成就院」一般に 「丹生大師」では、、、

、、、、、、宝亀五年(774年)弘法大師様の師匠である「勤操大徳」が開山され、その後時を経て、弘仁四年(813年)弘法大師様が伊勢神宮御参拝の途中、この地を訪れた際に来山され、御自分の師の開創された寺である事を知られ、「我は高野の聖地に、真言密教の根本道場を創立する誓願を建てているが、まずこの地に諸堂を建立し、庶民の苦悩を救わん」と言われ、弘仁六年(815年)に至って七堂伽藍を建立完備されたのであります。(不動堂・鐘楼堂・閣魔堂・地蔵堂・観音堂・薬師堂・大師堂)。

古くから「丹生(にう)水銀」 の産出地として富裕であったこの地は、中世に入ると一段と隆昌し、近世には「丹生の在家一千軒計り有りて民屋富みたる景気なり(勢陽雑記)」とある程になりました。また、寺も江戸時代中期頃には現在の寺観が整いました。、、とある。

※つまり、空海が最初に師事した「勤操」であるが、このことからも「勤操」が水銀に関係していることが分かる、、そして、、

、、、、、勤操(ごんそう・ごんぞう、天平勝宝6年(754年) – 天長4年5月8日(827年6月25日))は、奈良時代後期から平安時代前期にかけての三論宗の僧。俗姓は秦氏。大和国高市郡の出身。石淵上人・石淵僧正とも称される。、、、、、秦氏である。

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丹生神社は丹生(niu)という地名とともに、日本の各地にあります。丹生という名称は水銀との関わりがとても深く、現在は廃鉱山となっている伊勢の丹生鉱山(三重県多気郡多気町)が最も有名な水銀鉱山でした。驚いたことに縄文の時代から、水銀を採掘していたと伝えられています。
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卑弥呼の時代は施朱の風習があった。魏志倭人伝には、「丹」が献上品に名を連ねている。その結果、倭人の住む国の産物に「其山有丹」と紹介されている。卑弥呼の支配地域に辰砂の出る山があったと言うことである。

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銀精錬の神である金山彦命は日本書紀、古事記(金山毘古神)で登場する、、

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「辰砂(しんしゃ)」の採取を司る丹生(にう)氏は、水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。
この技術を持ち込んできたのは秦氏である。
辰砂と水銀の利用の主役は秦氏に移り、丹生氏は丹生都比売を祭祀する神官となった。秦氏もまた、丹生の地名、丹生神社の鎮座地に多く分布している
水銀・丹生の民族抄
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※辰砂(しんしゃ、cinnabar)は硫化水銀(II)(HgS)からなる鉱物である。別名に賢者の石、赤色硫化水銀、丹砂、朱砂、水銀朱などがある。日本では古来「丹(に)」と呼ばれた。水銀の重要な鉱石鉱物。

ここ、佐渡のお土産やで、、よく見かける赤い石は、、、これか、、、、。
丹生(にう)という音に、、、なにかが有りそうだが、、、、。
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※魏志倭人伝の中には「日本(倭国)には丹を体(顔)に塗る風習と,
丹を産する山がある」ことが記されていて,当時の中国では日本で辰砂の採れることが知ら
れていました.
丹生氏と呼ばれる一族は,恐らく渡来人を中心とした“辰砂を見つけて採掘する”技術集団
の一族で,最も活躍したのは2世紀から5世紀の頃であろうと推測されます.

丹生の辰砂紀行
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遠く大陸から、やって来た「山師」の祖先は鉱山発掘の知識を、おそらく「呪文」のように伝承したに違いない、、、秦氏や丹生氏、、、さまざまな技術者達が、、、この東国に来たのだ、、。

※山師に関する資料追跡は面白い、、、

金穿大工
は、坑内労働者の中では技術者として優遇されていました。
採掘は4時間ごとの交代制でしたので、休憩の時間がとれ、むしろの上で横になることもできました。金穿大工は高給でしたので、坑内から出ると酒や賭博を好み、流行の派手な身なりで贅沢な暮らしをしていました。しかし、石粉を吸う仕事でしたので、一般に短命の者が多かったといいます。相川の町には、こうした鉱山労働者の歓楽街も軒を連ね、金山景気で大いににぎわいました。
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無宿人
佐渡金山の発見後177年経った「安永7(1778)年、幕府は江戸の治安対策のため無宿人を佐渡へ送り水替人足として使役しました。
江戸中期には、より深い坑内での作業になったため、水上輪の使用もままならなくなり、桶や釣瓶(つるべ)による手繰水替が見直されることになりました。その後無宿人は、大坂、長崎からも送られ、幕末までこの制度が続きました。
佐渡へ送られた無宿人の総数は1874名とされ、隔日交代の一昼夜勤務と重労働を強いられました。
中には10年の水替を勤め上げて郷里に戻った者や、そのまま佐渡に定住し、普通の生活に戻った者もいました。

※流罪の地「佐渡」には、多くの政治犯も流された、、、
■佐渡歴史伝説館に入館
入館料¥700-

ここでは、
①順徳上皇
順徳天皇第一皇女慶子女王
のロボットが、、動きます、

承久の乱に敗れた「後鳥羽上皇」は隠岐の島に、、土御門上皇は土佐に、、
順徳上皇は佐渡に、、、島流し(配流)となった、、以後22年、1242年 46歳没

※官打ち
朝廷は、将軍に「官打ち」をしております、、これは、朝廷の常套手段です、、、
大江広元は源実朝に忠告した、、、

官打ちとは、相手の官位をどんどん引き上げて、、やがて官位の重さに耐え切れず自滅するのを待つ、、という幕府側に対する朝廷側の策だといいます、、、
官位を上げた実朝であるが、兄頼家の遺児公暁の刃に倒れる、、、まさに自滅だが、、その後、、

幕府側は、対策として、、皇族側に対して将軍下向を要請する、、、九条道家の子三寅を将軍頼経として人質にとり、、傀儡を作る、、そんな幕府と朝廷双方の、、駆引きが続く、、、

どうあれ、、、、幕府の実権は、執権北条泰時が握っているのだ、、、、

朝廷側で討幕が企てられる、、、そして後鳥羽院は兵を挙げる、「承久の乱1221年(承久3年5月)」である、、、、が、、、幕府軍19万、、上皇側は2万千余り、、、あっけなく敗退した、、、
戦犯として、、、三上皇が配流された、、、、、順徳上皇は佐渡に配流となったのである。

※上皇とは、天皇をリタイアした地位、、社長をリタイアして会長になった、、みたいなものですかね、、、。

②日蓮聖人
のロボット、、、
北条時宗の勘気を受けて佐渡流罪となったが、、、
鎌倉滝の口の法難、、、
塚原の墓地にある荒れ果てた三昧堂で地元の僧侶数百人との問答、「塚原問答」の場面、、、

③世阿弥
のロボット
将軍足利義教に疎まれ流罪
雨乞いのための舞を舞ったところ大粒の雨が降った、、

④語り部のおじいちゃん
ロボット、、、
佐渡の伝説を酔っ払いのおじいちゃんが語ります、、
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※このあと、、千葉県誕生の「あの方」の足跡を追います、、、

、、、、、、、

——-佐渡へ—②(塚原問答)—–につづく

佐渡へ---②(塚原問答)
「あの方」が鎌倉街道を通り、依智(厚木)の佐渡守護代、本間重連の館で28日間滞留された後、文永8年10月10日ここを立ち、、難渋18日間の旅の先に、、新潟「寺泊(てらどまり)」に護送され、、、荒海を超え、、、、1271年11月(旧暦文永8年...

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