空と海と   その2(桓武天皇)

大学寮を中途退学した空海は、その後7年の間消息不明となる、、、その間、、社寺仏閣を訪ね、、山野霊峰を歩き、、修験道者や山の仙人との対話をしながら、、、当てどなく彷徨い、、やがて、、私度僧となったと思われる。

当時、律令国家の中で、正式な僧になるには、東大寺の戒壇院で得度受戒を受けなければ」ならない、、受戒は各寺院に少人数が割り当てられ、、得度するには長い年月がかかる、、、私度僧とは無認可の僧だ、、、

■私度僧 空海
一説に、空海は、渡来人で「秦氏の出身」と言われる「勤操(ごんそう)」が開く「三論宗」の山寺で得度したと言われる、、、、

※「願わくば、我に第2の法門を示したまえ、、、」と願っていたところ、、、
その経典は、、、大和の国の高氏市郡の久米寺の東塔の下にあった、、、
『大毘盧遮那経』(だいびるしゃなきょう)(大日経)である、、、、、空海は、久米寺で、この「大日経」に没頭した、、、。

国家を背景に、権力を握った奈良仏教が支配する国家試験を、、、通らずに、、、私学(道場?)に入り非合法の私度僧として仏門に入った、、、、、。

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歴史的なヒーローが登場するときは、必ず舞台装置が整っている、、いや、舞台装置が整っているから歴史的ヒーローが登場する、、のかもしれない、、、

時代は、大きく変化していた、、、、

■桓武天皇即位
新たな天皇となった桓武天皇は、奈良の平城京を嫌い、、長岡、、そして、今、平安京(京都)に千年の都を築こうとしていた、、、
画像
<平安京 復元図 wikipedia>
桓武天皇即位前の、奈良の「平城京」は七十余年間、、「天武天皇系」と藤原氏によって繁栄した、、女帝の世紀とも言われる、、
骨肉の権力闘争、、怨霊渦巻く奈良の都、、、、、孝兼上皇と看護禅師「道鏡」とのスキャンダラスな話など、、権力の堕落が目に付くが、、、飛鳥という大きな山場を越えた後に、海外との紛争が無く、繁栄を謳歌した時代だ、、、
仏教文化が輸入され、、、その種が、、一旦は大地に埋もれるが、、、次の世代に芽を吹き、、大地に根付いてゆく、、、。

思わぬ方向で、次の時代に入った、、、
政争の外にあった「天智天皇系」の白壁王が、62歳という高齢で、四十九代「光仁天皇(770~781)」として即位する、、、

これには、裏取引があった、、、

再び「天武系」に戻すために、、
井上皇后(天武系)の実子、他戸皇子を後継にする、、はずであった、、
つまり、光仁天皇は繋ぎ天皇として、見られていた、、、、。

天皇家の権力争いで、女帝の場合には、よくある話だが、、、実力者の持統天皇や孝兼天皇は別として、、
暫定とか傀儡(かいらい)とか言われる場合が多い、、、

ところが、、、
ここでは、、「藤原百川」の陰謀によって、即位2年後には、井上皇后、他戸皇子は廃后、廃太子処分にされて、、幽閉され、、暗殺されたと言われる、、、

光仁天皇即位6年後に、思いもかけられていなかった、もう一人の息子、「山部親王」が皇位に付く、、、
「桓武天皇(781~806)」である、、、、

桓武天皇の母方は渡来系和氏族出身の高野新笠といわれ、天武の血とは離れる、、久々に「天智系」の天皇となったわけだ、、、

ただ、、、解かりずらいのは、もともと天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)は兄弟だから、血は近い、同じじゃあないか、、たまたま、跡継ぎ問題で、弟の大海人皇子に譲ると言ったのを、晩年に息子(大友皇子)に即位しようとして失敗した、、、それが原因で壬申の乱(672)が起きた、、、、天皇家は骨肉の争いだからややこしい、、、

※この時点では、天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)は兄弟である、という説をとっていたが、全く違う非兄弟説があるので、、

拙者Blog「ニュータウン葦原之中津国島の謎」参照
ニュータウン葦原之中津国島の謎
※この島には、、古くは3万年の昔より、、大陸から海洋から北から南から、、様々な民族が、移住してきた、、 やがて、民族、文化の混沌から、、、葦原之中津国島(ASHIHARA NO NAKATUKUNI)と呼ばれるニュータウンが創られた。 他国...

※更に、、どろどろとするのは、、、藤原氏が常に権力の裏にいることである、、、実質的に権力の2重構造が日常化してしまっている、、、藤原氏も同門4家(南家、北家、式家、京家)が、どろどろと政権を争っている、、、

ただ、これを仕掛けた藤原百川(※式家)は、桓武天皇即位前に死んでしまった、、、、、
百川が、、何を目論んでいたかは、、解からない、、、。

それにしても、桓武天皇にとって、この都、、「平城京」は危険な場所である、、、、

即位の翌年には、さっそく天武系の氷上川継による皇位奪回の事件が起こる、、、

疫病、天災、怨霊渦巻く奈良の都、、、
桓武天皇は平城京を嫌い、、新たな都、、、新たな政治、、、新たな国家鎮護の宗教を求めていた、、、、

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宗教界に若き二人の天才が登場する、、、「最澄」と「空海」である、、、、

二人はやがてライバルとなるが、、、ここでは未だ、、新たな国つくりを思う桓武天皇に期待され、共に遣唐使船に乗り込み先端思想を持ち帰る任務を帯びた若きエリート仲間である、、、

しかし、唐に出発する前の二人の環境は、大きな隔たりがあった、、、

最澄は、すでに東大寺で二十歳の若さで得度受戒を受けたエリート、、しかも、奈良を離れ、比叡山で山岳修業に打ち込んでいるのを、桓武天皇に見込まれた、、、やがて、朝廷の供奉僧に任じられた、、、すでに高僧である、、、

※最澄は、七歳から陰陽、医学、工巧(建築)などを学び、12歳で近江国分寺入門、「行表」に師事して15歳で僧籍、19歳で年間10名程度の狭き門である、東大寺で得度する、、、<当時の正式な僧は、国家公務員資格である、、>

出発にあたり、完成度の高い僧が命ぜられる「短期還学生」として金銀数百両を贈られており、船内の居住も保障されている、、、

一方、この頃空海は、放浪の私度僧のまま、新しい都の平安京に入るが、、、、急遽、入唐のためにあわただしく、正規の得度をする、、、実力はあったとしても、遣唐使は国家の事業である、、従って国家が認めた正式な得度僧(官僧)でなければ遣唐使の資格はない、、、

803年3月に大阪を出航した遣唐使船に「空海」の名前は載っていない、、、
空海は乗り遅れている、、、ところが、、、この船は暴風に会い、引き返す、、、翌年804年5月に再出発するが、この時に、、、空海は乗船に成功する、、、
もし乗り込めなかった場合は、次の遣唐使船は30年後である、、、、

そこには、人脈が働いていたと思われる、、桓武天皇の第三皇子の伊予親王、そして伊予親王の侍講(家庭教師 )を務めていた叔父の阿刀大足、新都造営を司る和気清麻呂(息子の広世)、または坂上田村麻呂,あるいは、得度を受けたと言われる「勤操」か、、空海の将来性と実力を理解する支援者がいたに違いない、、、
※これらの人達は、帰国後もサポートしている(伊予親王は若くして自殺(暗殺?)しているが、、)、、、。

ちなみに、「最澄」を桓武天皇に推薦したのは、和気清麻呂であり、旧権力の奈良仏教衆に対抗するため新体制つくりに気鋭の人材を登用していたと思えるのです、、、

※最澄が平安京の郊外、高雄山寺において世間に対して始めて「天台三大部」の講演を行う、、、、その催しは、和気広世(和気清麻呂の子)によって行われた、、、しかも、、、桓武天皇が賞賛している、、、、

※問題は、奈良六宗の学匠に聴聞させ、、感想を提出させるという、、、政治性を帯びていた、、、
天皇が褒め称えている講演である、
「、、、、われらは、これを聞くよき運にめぐり合い、歓喜にたえまず、、、感謝する次第です」と返している。
最澄の性格から、、自身が政治力を利用する気は無い、、、官僧である、、断ることもない、、、、が、、、、、

、、、、それは、最澄の後半生において、奈良六宗の復讐的な反撃を受ける原因にもなる、、、、

放浪僧の空海にも、その話は及んでいた、、、そして、、、七歳年上の最澄にライバル意識を昂ぶらせていった、、、、「朝廷の威を借りて、、、最澄なるものは、、、」、、遣唐船の噂を聞いたとき、瞬間的に活動を開始する、、、

「唐においては、最早、、天台教学は力を失っている、、」、、そう、空海は思っているのだ、、、

※奈良仏教–wikipedia————————–
※南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)という学派が形成された。大規模な写経もおこなわれており、特に光明皇后発願の一切経の写経事業は、大仏造立や国分寺造営とならぶ大事業であった。

仏教の発展は、遣唐使にしたがって留学した道慈(三論宗)や玄昉(法相宗)ら学問僧たちの努力によるところが大きいが、754年(天平勝宝6年)1月に6度目の航海のすえに平城京に到着して、戒律や多数の経典[6]を伝えた唐出身の鑑真和上、大仏開眼供養の導師となったインド出身の菩提僊那、菩提僊那と同時に来日したチャンパ王国(林邑=ベトナム)出身の僧仏哲、唐僧道、また、多くの新羅僧ら外国出身の僧侶の活動に負うところも大きかった。

朝廷は国教として仏教を保護するいっぽう、「僧尼令」などの法令によってきびしく統制し、僧侶になる手続きや資格をさだめて仏教の民間布教に制限を加えた。しかし、行基のように禁令にそむいて民間への布教をおこない、弾圧されたものの灌漑設備や布施屋の設置、道路建設などの社会事業に尽力し、民衆の支持を集める僧侶もあった。行基は結局、その人気に注目した政府によって登用され、大仏建立に尽力したことで大僧正の僧位を得た。
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空海の形式的な受戒を待って、、、船は出航したのである。

それにしても、空海の身分は、一介の留学生、、本来は、むこう20年、現地で修業しなければならない、、給与は保証されていない、、、

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ただ、、、桓武天皇という専制君主を擁する、新たな国家が、、、二人の天才を唐に送り込んだのだ、、、

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——–書きかけです———-

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