慶応3年10月29日から11月17日 弥太郎日記は空白に、、

岩崎弥太郎は、学問の環境には恵まれていた、、、
医者の娘だった母、叔父二人は医者、、叔母は儒者「岡本寧浦(ねいほ)」に嫁いでいる。
弥太郎は、その縁で土佐随一の岡本寧浦の「紅友塾」に15歳のときにあずけられている、、、

やがて、学者の奥村慥斎(ぞうさい)の従者として念願の江戸に遊学することができ、、江戸では安積良斎(あさかごんさい)の「見山塾」で才能の片鱗を見せるが、、、父弥次郎のトラブルで江戸を離れて帰郷しなければならなくなった、、、

父の冤罪を訴えたが受け入れられず、怒り心頭して、奉行所の柱に「官以賄賂成、獄因愛憎決」と大書きしたため、自らも官への侮辱罪とされて入獄させられてしまう、、、獄中で獄仲間に商売の基本と算術を教えられた逸話がある、、、

追放処分後には高知城下近くで寺子屋まがいの塾を開いて家計を支えたが、、この頃は確かに経済的には厳しかったでしょう、、、
赦免を機に、「吉田東洋の少林塾」に入門、、、東洋の甥の後藤象二郎らと同門となる。(後藤象二郎と弥太郎の関系は、竜馬暗殺の闇まで続く、、)

藩政に復帰した東洋に目をかけられ、海外事情を視察する目的で長崎出張を命じられるエリートである、、、

しかし、接待に金を使いすぎ、、放蕩三昧で金策に困るなど、、豪放さが災いして、、無断帰国し、赦免される、、。

その後、郷士の娘、喜勢と結婚したが、、、その年(文久2年)に頼りとする吉田東洋が土佐勤皇党に暗殺される、、、保守派が主流と成り、元東洋派は失職、、一時は失意の生活となった、、、

やがて、同門であり、吉田東洋の甥の後藤象二郎が復権したのに伴い、、弥太郎も復帰する、、、
土佐商会で貿易を担当し、、功績をあげた、、、身分は郷士から、上級武士の新留守居組みに昇格する、、、
後藤象二郎を通じて、、中浜万次郎とも知り合い、、世界情勢の啓発を受ける、、

ここで、、弥太郎と後藤象二郎の関係がかなり、深いことが理解できる、、、
龍馬とは、、長崎で亀山社中が海援隊になり、、弥太郎が土佐商会として海援隊の経理を担当することから親密となる、、、、慶応3年3月からであるから、、、龍馬との親密な付き合いはわずか半年ということになる。

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、、、、で、、あるから、、
曾祖父の時代に郷士株を売り払うほど困窮して、地下浪人の身分に落ちてしまったが、、、こと学問に関しては、弥太郎はむしろ幼少の頃から恵まれたエリートの道を歩んできている、、ただのガキではない、、、
また、龍馬とどの程度親密だったかは、慎重に見てもおかしくない、、、
NHKの龍馬伝に見る汚れた生活とは、ややイメージが異なるようだ
やはり、、三菱がクレームをつけてもしょうがない、、、
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安芸市に着いたのは、14:00になっていた、、、
ここでは、、安芸市商工観光課のイベント会場を覗き、、とにかく弥太郎の生家に行く予定だ、、、気が焦る、、
日が沈む前に、、この後、、中岡慎太郎の生家、、、そして室戸岬まで行くのが、本日の予定だ、、、、

イベント会場で弥太郎の生家までの地図をもらうが、、分かり易そうで、、分かり難い、、、これは田舎の道だ、、
あちこち彷徨いながら、、田んぼを越えて、、ようやく弥太郎の生家にたどり着いた、、、
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復元したものであろうが、、郷士の一般的な住居と言われている、、、
NHKの龍馬伝を見ての観光客は「いやあ、、これは絶対に後から治しているよ、、きれいだもんね」
などと話しています。
、、、ここは18歳までしか居ません、、しかも15歳には高知城下の「紅友塾」に寄宿している。

邸内には三菱が建てた記念碑が建てられています。

※三菱のマークが山内家の三葉柏と岩崎家の三階菱との合成であることは、よく知られている、、、
明治3年に「土佐商会」を「九十九商会」に改称した際に決められた、、、
※ちなみに、土佐湾は山内容堂の稚号から「九十九洋」と呼ばれていた、、、、百に一欠けることから白洋と呼ぶことがある、、
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<こちらは東京池之端にある旧岩崎邸 千代田線「湯島」下車3分>
この庭園横の道、無縁坂を登ると、裏手に「三菱史料館」がある、、、更に詳しい三菱の歴史を観ることができる、、、(長男の久彌が建造)

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ところで、大政奉還から龍馬暗殺の期間であるが、、、
弥太郎は、土佐の経済官僚、、、龍馬は藩を超えた先覚者、風雲児で、、、、藩邸に入るのも気にしていた、、、

龍馬は、、この間、維新後の新政府の財政確保のため、松平春獄に資金と、新政府閣僚への参加を求めている、、、これは、旧幕臣の新政府参加で、岩倉など朝廷側にとっては、不信をつのらせることになるだろう、、、

龍馬は当然そのことは承知していなければいけない、、だから、西郷や木戸には閣僚名簿について話は通していただろう、、、概ねは順調に進んでいたと思われる、、、

※■「新官制擬定書」
龍馬が戸田雅楽(うた)=尾崎三郎に起草を頼んだとされる、、

関白(1名) :公卿中より徳のある人物 — 三条実美 が腹案
議奏(若干): 諸侯、公卿より徳のある人物—島津、毛利、伊達、鍋島藩主、、岩倉具視
参議(若干):公卿、諸侯、大夫、庶人をもって、、、—小松帯刀、西郷隆盛、大久保利道、後藤象二郎、木戸準一郎、光岡八郎、横井平四朗、長岡良之助、(坂本龍馬)

原本は無い、、後世の証言、著述によるものだが、、、信頼性から尾崎三郎の口述から「史談会速記録」、「尾崎三郎自叙略伝」が挙げられるらしい、、、それによると、、、、なんと、、、、、龍馬が「参事」に記載されていたと言う、、、

「坂本之を見て手を拍って大いに喜んで曰く、是れ今日に行ふべし。我断じて之を行うことに尽力すべし」
とあるらしい、、、

もし、、、龍馬の名前が記載されていると、、、
一説に言う、あの有名な話が違ってくる、、
「新官制擬定書」に、、、龍馬の名前が無い、、と西郷が問うと、、

龍馬は自分は役人は性に合わない、、「左様さ、世界の海援隊でもやらんかな」と言って西郷をうならせる、、、、

いや、、、この逸話だけは龍馬の生き方として、残して欲しいと思う、、、龍馬は自ら、名前を削除した、、としておこうか、、、。

一方、中岡慎太郎は、討幕路線は「時勢」と判断していた、、、陸援隊は武力討幕で、薩長と連携させる、、、過去の東西の歴史からも、、国家権力の移行に周旋などは、、、考えられない、、、と、、、未だ時勢を見る判断は龍馬とは衝突する、、、

時代は、すでに次のステージに入っていた、、、、

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このころ龍馬は松平春獄の政策スタッフである、横井小楠の「国是七条」を手本にした「新政府綱領八策」を作成している。

※折角なので、ここで横井小楠の幕政改革建議
①【国是七条】copy–
1.大将軍上洛して列世の無礼を謝せ。
1.諸侯の参勤を止めて述職となせ。
1.諸侯の室家を帰せ。
1.外様・譜代にかぎらず賢をえらびて政官となせ。
1.大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ。
1.海軍をおこし兵威を強くせよ。
1.相対交易をやめ官交易となせ。

②【船中八策】copy–
※龍馬が土佐藩船の夕顔丸で発案したと言われている

1.天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出ずべきこと。
1.上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機よろしく公論に決すべき事。
1.有材の公卿・諸侯および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事。
1.外国の交際広く公議をとり、新たに至当の規約を立つべき事。
1.古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事。
1.海軍よろしく拡張すべき事。
1.御親兵を置き帝都を守衛せしむべき事。
1.金銀物価よろしく外国と平均の法を設くべき事。

※船中八策についての、龍馬あるいは長岡謙吉の「自筆文書」が存在しない、、また、船中であるかも定かでない。

③【新政府綱領八策】 長府博物館
※大政奉還後に龍馬は具体的な綱領を作成した、、
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第一義
天下有名の人材を招致し、顧問に供ふ
第二義
有材の諸侯を撰用し朝廷の官爵を賜ひ、現今有名無実の官を除く
第三義
外国の交際を議定す
第四義
律令を撰し、新に無窮の大典を定む。律令既に定れは、諸侯伯皆此を奉して部下を率ゆ
第五義
上下議政所
第六義
海陸軍局
第七義
親兵
第八義
皇国今日の金銀物価を外国と平均す

右預め二三の明眼士と議定し、諸侯会盟の日を待つて云云。○○○自ら盟主と為り、此を以て朝廷に奉り、始て天下萬民に公布云云。強抗非礼、公議に違ふ者は、断然征討す。権門貴族も貸借する事なし

慶応丁卯十一月 坂本直柔

※、この文章の、、○○○は、誰れを指すのか、、と、、問題になる、、、

どうとでもとれる処は龍馬の発想らしくていい、、、、ただし、これが暗殺の原因になったと言われている、、、

一般的には○○○は、徳川慶喜と思われている、、、しかし、、、この○○○は、龍馬の死後、、王政復古によって
実質的には、岩倉具視が政権首班を握ったと言っていいから、、、、、、龍馬の目論みを潰し、自ら○○○となった岩倉は龍馬暗殺の黒幕と見られることにもなっている、、、

④【五箇条の御誓文】

明治政府の基本方針として慶応5年3月に明治天皇が出御のうえ儀式を行い「五箇条の御誓文」が発布された、、、これは「由利公正の素案」「福岡孝弟の修正案」「木戸孝允の修正案」によって成った、、、、
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<有栖川宮幟仁親王が揮毫、三条実美が奉読した>

一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ

一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フベシ

一 官武一途庶民ニ至ル迠各其志ヲ遂ケ
人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス

一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ

一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ
朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ
大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ
立ントス衆亦此趣旨ニ基キ協心努力セヨ
慶応四年三月十四日 御諱

勅意宏遠誠ニ以テ感銘ニ不堪今日ノ急務永世ノ基礎此他ニ出ベカラズ臣等謹ンデ 叡旨ヲ奉載シ死ヲ誓ヒ黽勉從事冀クハ以テ 宸襟ヲ安ジ奉ラン
慶應四年戊辰三月
總裁名印
公卿諸侯各名印

参考
日本史探偵団文庫>五箇条の御誓文関係史料

※結局「五箇条の御誓文」は、、、横井小楠の指導を受けた福井藩の「由利公正の素案」によって草案されたのだから、、、最初の松平春獄、、横井小楠の考えに基づいていることが判る、、、、やはり龍馬の先覚眼は、卓越している、、、。

由利公正 - Wikipedia

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※土佐藩より建白した「大政奉還の建白書」の上表文は次のとおり、、、

臣慶喜謹テ皇国時運之改革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑当ヲ失フコト不少、今日之形勢ニ至リ候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候、況ヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下之公儀ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候、、臣慶喜国家ニ所尽、是ニ不過奉存候、乍去猶見込之儀モ有之候得者可申聞旨、諸侯江相達置候、依之此段謹テ奏聞仕候

– 大政奉還上表文(部分)

wikipedia——————————————–
※内容が違うようですが、、他のサイトから、、、
兵庫龍馬会web録 龍馬伝 想 『大政奉還』~大政奉還建白の裏で計画された、にせ金作り・・・龍馬のしたたかさ~
からcopy
誠惶誠恐、謹しんで建言仕候。天下憂世の士口を鎖して言はざるに馴れ候は、誠におそるべきの時に候。朝廷、幕府、公卿、諸侯、旨趣相違ふの状あるに似たり。誠におそるべきの至りに候。此のくは吾人の大患にして、彼の大幸也。彼の策ここに於てかなり候というべく候。かくの如き事態に陥り候は、その責畢竟誰に帰すべき哉。併し既往の是非曲直を喋々弁難すと雖も何の益かあらむ。唯願ふは大活眼、大英断を以て天下万民と共に、一心協力、公明正大の道理に帰し、万世に亘って恥ぢず、万国に臨て不愧の大根底を建てざるべからず。此旨趣、前月上京の砌にも追々建白仕候心得に御座候得共、何分阻隔の筋のみ有之、その内不図も旧疾再発仕、不得止帰国仕候。以来、起居動作とも不随意の事に成至、再上の儀暫時相調不申候ば、誠に残憾の次第にて、只管此事のみ日夜焦慮仕り罷在候。因て思慮の趣、一々家来共を以て言上仕候。唯幾重にも公明正大の道理に帰し、天下万民と共に、皇国数百年の国体を一変し、至誠を以て万民に接し、王政復古の業を建てざるべからざるの大機会と奉存候。猶又別紙御細覧被仰付度、懇々の情難黙止泣血流涕の至に不堪候。
慶応三丁卯年九月 松平容堂

建白書の写真の一部は、下記URLでどうぞ。
http://www.ndl.go.jp/site_nippon/kensei/shiryou/simage/Gazou_39_1.html

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さて、、
「大政奉還」の建白を成し遂げた後藤象二郎を、旧知の部下の弥太郎はどう見ていたろうか、、、、
なにを、すべきと思っていたろうか、、、、
また、後藤は、この時期「いろは丸」事件の賠償金の周旋も含めて、弥太郎に何を求めていたろうか、、、

気になるのは、、、弥太郎が記してきた「弥太郎日記」には、10月29日から11月17日までが、、、「何故か空白になっている」、、、、、龍馬、中岡が暗殺されたのは11月15日、、、、、

この頃、弥太郎は京都、大阪に居た、、、後藤象二郎は土佐に帰っている、、、
大政奉還後の重要な時期、、、「日記の空白期間」は何を物語っているのか、、、
この部分は、、、謎に包まれている、、、

弥太郎!!君は何かを知っているのではないのか!!、、、、、
どこかに、、、謎解きの、、、キーを残してくれたのか?
それとも、、、永遠に封印したのか、、、、、

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、、、「いんや、実は、、、大変な時機じゃき、、日記なんぞ、書く余裕がなかったんじゃ、、、」

、、、、まあ、そう言われちゃあ、、、しょうがないけど、、、ホントは、知ってるん、、、だろ、、龍馬、中岡暗殺の黒幕を、、、

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