AD(Anno Domini)とBC(Before Christ)We Are The World

建国記念日が2月11日として施行されたのは昭和41年からで佐藤内閣のときである。

それ以前
昭和23年に廃止されるまでは2月11日は
紀元節(日本書紀で神武天皇が即位されたという日)として明治5年(1872)に制定されていた。

これでいいのか?という意見は多いらしいが、、、が歴史の真実より、お話の世界の方が問題ないかも、、。

当時、昭和天皇の弟の三笠宮崇仁親王は建国記念日に反対、、。
理由は歴史家として「紀元節の日付は、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔)に由来する[2]。」
は史実に基づかないということらしい、、、。

そもそも、歴史は権力者によって書き換えられるのは常、、、、、。
「日本書紀」が国内外に向けての天皇家正当化への編集方針だとすると、藤原不比等や当時の天皇家に都合のいいように編纂されても何の不思議はない、、、、、、。

また、神武天皇(イハレビコ)が存在したかが疑問視されている。

神武天皇より九代の開化天皇までは、「欠史八代」といって、一般的には存在しない天皇と言われているらしい。
あるいは、物部氏に関係する豪族とも言われている。

神武天皇の墓は、幕末にこの地の円墳を「これを神武天皇稜」にしよう、、、。と、、「決定」したものであり
その後に大規模な修復がされたものと言われている。

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幕府が15000両を出して修復した。このとき神武天皇陵だけでなく、百いくつの天皇陵全体の修復を行った。神武天皇陵は転々としてきた歴史がある。国源寺は明治初年、神武天皇陵の神域となった場所から大窪寺の跡地へと移転したが、ミサンザイにあった塚はもとは国源寺方丈堂の基壇であったという説もある。
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※宮内庁は学術的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、祭祀を行っている場所が天皇陵である」とし、天皇陵の治定見直しを拒絶している[3]。

近年では、「墓誌など被葬者を特定できるような確実な証拠が発見されなければ、見直す状況にはならない」とし[4]、証拠の発見など、状況によっては天皇陵の治定見直しを行う可能性もあることを示唆している。

考古学界も天皇陵指定を受けていない天皇陵と推定されている古墳に関しては、墓誌などが出土したわけではないので、あくまでも推定でしかないとの立場を取っている。このため、学界内部に於いても、治定見直しを行うような論議は一切行われていない。

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※つまり宮内庁は、、、世間の観光地によくある、、逸話の世界で満足ということですね、、、
、、こちらが、、ヤマトタケルが剣で割った石です、、、のような、、

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ここで、昨年末に小沢さんが韓国でしゃべった「天皇騎馬民族説」が思い出せる、、、、。

3世紀末に北東アジアの騎馬民族で任那(みまな)出身の辰王が九州を征服、その100年後に東征して大和を征服したというもの、、、、、だと思う。

遠くは、イスラエルを征服したアッシリアはスキタイによって征服された、、。
古代ユダヤ文化が北方騎馬民族に伝わり、、、その末裔が東アジアにたどりついた、、、、、。


「日本固有文明の謎はユダヤで解ける」 P149の図
ノーマン・マクレオド、久保有政
があるが、これは考えさせられる。
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これによると———–copy———
旧約聖書に記述されているヤコブの系図と、日本神話に出てくるニニギの記述は、驚くほど一致しています。 以前、日本神話とギリシア神話の驚くほどの共通点を紹介しましたが、やはり古代日本及び天皇家は、シュメール、イスラエル、ギリシアナなどの文明や神話が伝承され、それらから大きく影響を受けたものであると考える方が自然であるような気がします。

天皇と記紀神話
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記紀神話では、天皇家また大和民族は、天から降りてきたニニギ(ニニギノミコト)の子孫ということになっており、ニニギは天孫民族の父祖とされています。 一方、ヤコブはイスラエル民族の父祖であることは言うまでもありません。

日本神話では、はじめ天から降りる予定だったのはオシホミミですが、彼が準備している間に、ニニギが生まれ、後から生まれたニニギが天から降り、天孫の父祖となりました。
旧約聖書では、エサウ(ヤコブの兄)がイサクの祝福を受ける予定でしたが、弟のヤコブが祝福を受け、イスラエル民族の父祖となりました。

日本神話では、ニニギは天から降りてくると、美女のコノハナサクヤヒメに恋して彼女を妻にしようとしますが、彼女の父は彼女だけでなく、姉の面倒も見て欲しいと言いましたが、ニニギはこの姉を父に返しました。  旧約聖書では、ヤコブは美女ラケルに恋して彼女を妻にしようとしますが、彼女の父は姉も妻にしてやってくれと頼みますが、ヤコブは姉レアを嫌いました。

日本神話ではニニギは、妻コノハナサクヤヒメとの間に山幸彦を授かりますが、山幸彦は兄(海幸彦)に苛められ海神の国に行き、そこで山幸彦は神秘的な力を得て、田畑を凶作にして兄を悩ませますが、最後は兄を赦します。 旧約聖書では、ヤコブは妻ラケルとの間にヨセフを授かりますが、ヨセフは兄達に苛められ、エジプトに奴隷として売られてしまいます。 その後、エジプトの宰相の地位まで上りつめ権力を持ち、兄達が凶作に苦しみエジプトに来た時に、兄達を赦します。

日本神話においては、山幸彦は海神の娘(トヨタマヒメ)を妻にし、その間にウガヤフキアエズを授かります。 ウガヤフキアエズには4人の息子が生まれ、2番目と3番目は別のところに行きいなくなってしまいます。 4番目の息子が神武天皇で、大和の国を制する人物となります。  旧約聖書では、ヨセフはエジプトの祭司の娘を妻にし、その間にマナセとエフライムを授かります。 エフライムには4人の息子が生まれ、2番目と3番目の子は早死にし、4番目の息子としてヨシュアが生まれ、ヨシュアはイスラエル民族を率いて、カナンの地(イスラエル)を征服します。 このエフライム族の流れを汲んでいるのがイスラエル10支族の王室です。

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※参考追記
日本とヘブライの共通点(判り易くて怖い)
日本とヘブライの共通点(簡単にリストアップ)

南伽那の玉田古墳は騎馬民族を伺わせるものであるという。

九州を征服したのは10代目と言われている「崇神天皇」、そして、15代「応神天皇」が東征したというもの、、、、である、、、とする説は多い。

ところで現在125代目になる天皇家の中で
「神」と名のついた天皇は神武(イワレビコ)、崇神(ミマキイリヒコ)、応神(ホムタワケ)の3人だけということには、意味がある、、、と思える。

※何故、この3者だけが神という名がついたのか?

素人の大胆さで、仮設その1として考えると、、、。
この3者は実在しなかったのではないのか?としたら、、、、、。

歴史の中には混乱の時代はある。他国に侵略されて、国ごと文化が滅亡することはある。
記紀の編纂にあたり、この失った時代をつなげるためには、どう編纂するのか?
ある部分は神話として伝え、ある部分は明らかではないが概要史を伝えるために「神」として存在させる、、、、、、、。
ただし、後世の判別のために、キーワードとして「神」は実在者には称けることはない。、、、そんな手法をとったのではないか、、、、。
この時代の武内宿禰(タケノウチ ツクネ)という人物が244年も生きたことになってしまうように、無理が生じてしまうこともある。、、、が、、、それが「豪族達の総称として創造した人物」と解されていれば理解できる。

仮設その2、、、、、

まともな回答としては、神がつく天皇は開祖である、、、王権の系譜、時代が代わったことを意味する。
※神武天皇=初馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト)、、、、崇神天皇=御肇国天皇
いずれも、、「初国冶らす天皇」の意味で、、、崇神天皇が初めての天皇で、、それ以前は架空とする学者もいる、、。

仮設その3、、、、、。
※「ハツクニシラス」は、ハツをヘブライ語で「分かれた」と解釈すると、、二分した国を治めた、、統一した、、のが崇神天皇、、ということになる、、。

、、、、、、ただ多くは、歴史の謎として残されているのみである。、、、、いいんだろうか?

崇神天皇(ミマキイリヒコ)の名前のミマキは「任那の城」という意味である、、、。
そのほか、古墳の副葬品が急に騎馬民族に関係するものが増えることが騎馬民族説の理由としてあげられている。

ただし、この騎馬民族説には「反論」も多い、、、農耕民族の流れが変わっていないなど、、、、。

ただ、この時代以前から、順番はともかく、渡来人も多く、遡ればみんな外からやって来たんではないでしょうか、、、。

とにかく、ナガスネシは豪族として近畿地方の権力者だった。ニギハヤが後から渡来して、妹と結婚した、そしてウマシマジが生まれた。そこへ「イハレビコ」が東征してきたとき。ニギハヤが裏切って「イハレビコ」に帰順した。
記紀にはそう記してある、、、、、。

※ここまでくると、、、、、素人が発想させられるのは、、、これだ、、、、。

伊勢神宮が奈良時代から、皇族が参拝しないことが知られている。、、むしろ恐れているふしがある、、、。
これは、崇神天皇が宮殿内にあった「アマテラス」を自分達の神と一緒にできないとして、外に出してからだ、、、と言われている。
つまり、「アマテラス」は身内ではないといっている。

崇神天皇、応神天皇の時代、、つまり「実際の東征」によって、縄文時代、弥生前期、卑弥呼の時代の、倭国合衆国とは別の、大和国家という渡来の天皇による統一がなったのでしょう。

しかし、海外、国内には天皇の系統を判り易く、奇麗に説明する必要がある、、。そこで記紀では神武天皇という存在を創りあげ、、、、、。
また、幕末、特に明治政府によって明治、大正、昭和までこれを政治利用し天皇家を「万世一系」とした、、、、、、、。

古くは、日本は南から、北から大陸から多くの部族、人種が混血して出来上がってきた人種国であると言える。
その中で、天皇家は長い歴史と伝統を守ってきた日本を代表する家系であることは間違いない。
海外に生活する人などはアイデンテティーとしての存在感が増すといいます。

ただ、神ではない、、。また騎馬民族、百済人といった単純切り分けも正しくない、、、。
歴史的事実として、近くは明治維新以降の国民意識の統一のために、歴史的経過措置として、、ずばり、正しくない天皇の政治利用がなされた、、、、のでしょう、、、、。
しかし、天皇はその昔、大王権政治そのものと見えますから、政治利用は別に当たり前の歴史ことでしょう、、、。

亀井さん(大臣)が「京都におかえりになったらいかがでしょうか、、、」発言も時代のながれでしょう。
その亀井さん「それとも、広島に来ませんか?」とも言った、、、。
「安芸の宮島」は広島でした、、。相当な皮肉を言ったように思えますが、、、、、。
呉は高麗のことでもありますし、、、、、。

国際文化交流が進む中で、海外の資料との突合せで更に、歴史、民族の新しい標準見解がなされることは期待できる。

ところで、西暦とは、キリストが誕生した日とされている。
紀元前と紀元後では
AD(Anno Domini)1年はラテン語からきた英語で主(イエスキリスト)で、BC(Before Christ)はそのまま、キリストの以前です。なにも考えないで、AD200とかBC500とか書きますけど、イスラムなどどうしてるんでしょう。

なんであれ、今日は「建国記念日」でお休みです。

————We Are The World—————

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